2024年12月10日
番外 富山県の古墳③ 朝日長山古墳 氷見市 43m
消滅古墳です。10年以上前の訪問で、正確な位置情報がなく遠景の絵しか撮っていませんでした。
氷見市のHP.の「朝日長山古墳出土品(考古資料)」の項目で、「朝日長山古墳は氷見市朝日本町の丘陵標高約25mにかつて所在した古墳です。全長は約43mと推定され、古墳時代後期としては、県内最大の前方後円墳です。埋葬施設は北部九州に系譜を辿れる竪穴系横口式石室で県内最古の横穴式石室と考えられています。昭和25年(1950)4月に土砂採取地で氷見高等学校歴史クラブが発見し、昭和27年(1952)に石室の発掘調査が行われました。昭和44年(1969)には埴輪が発見され、続く昭和47年(1972)には氷見高等学校歴史クラブと氷見市教育委員会が石室残存部と埴輪出土地及び埋葬施設の発掘調査を実施し、富山県の考古学史上高く評価されました。また、埴輪は県内で初めての発見となりました。 石室内部から鉄製品・金銅製品・玉類・須恵器・土師器といった質・量とも豊富な副葬品が出土しています。特に、冠帽は朝鮮半島南部(伽耶かや)に系譜を求めることができます。被葬者が古墳時代後期のヤマト政権(前方後円墳体制)に属しながらもその主体性が認められ、中央と地方の関係を示す貴重な資料といえます。 古墳時代後期県内最大規模の前方後円墳のこれら出土品は、富山県の古墳時代後期の歴史や社会を理解する上で貴重な一括資料です。」と記されています。
余談ですが、この朝日長山古墳の訪問は、氷見市の稲積城ケ峰古墳のおまけ的存在でした。稲積城ケ峰古墳は、ランキング727位として2018年8月10日のブログに掲載していますが、70m級の前方後円墳ではなく直径33mの円墳でした。「主客転倒ダラー」。
跡地遠景(古墳は右端の林の奥付近)。
住宅は朝日本町17-13付近。
跡地遠景。
以上2014年6月撮影。
氷見市のHP.の「朝日長山古墳出土品(考古資料)」の項目で、「朝日長山古墳は氷見市朝日本町の丘陵標高約25mにかつて所在した古墳です。全長は約43mと推定され、古墳時代後期としては、県内最大の前方後円墳です。埋葬施設は北部九州に系譜を辿れる竪穴系横口式石室で県内最古の横穴式石室と考えられています。昭和25年(1950)4月に土砂採取地で氷見高等学校歴史クラブが発見し、昭和27年(1952)に石室の発掘調査が行われました。昭和44年(1969)には埴輪が発見され、続く昭和47年(1972)には氷見高等学校歴史クラブと氷見市教育委員会が石室残存部と埴輪出土地及び埋葬施設の発掘調査を実施し、富山県の考古学史上高く評価されました。また、埴輪は県内で初めての発見となりました。 石室内部から鉄製品・金銅製品・玉類・須恵器・土師器といった質・量とも豊富な副葬品が出土しています。特に、冠帽は朝鮮半島南部(伽耶かや)に系譜を求めることができます。被葬者が古墳時代後期のヤマト政権(前方後円墳体制)に属しながらもその主体性が認められ、中央と地方の関係を示す貴重な資料といえます。 古墳時代後期県内最大規模の前方後円墳のこれら出土品は、富山県の古墳時代後期の歴史や社会を理解する上で貴重な一括資料です。」と記されています。
余談ですが、この朝日長山古墳の訪問は、氷見市の稲積城ケ峰古墳のおまけ的存在でした。稲積城ケ峰古墳は、ランキング727位として2018年8月10日のブログに掲載していますが、70m級の前方後円墳ではなく直径33mの円墳でした。「主客転倒ダラー」。
跡地遠景(古墳は右端の林の奥付近)。
跡地遠景。
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07:07
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2024年12月08日
番外 富山県の古墳② 桜谷2号墳[桜谷古墳群] 高岡市 50m
この古墳は、2018年12月17日のブログで、「桜谷古墳のおまけの「桜谷2号墳」」として絵のみ掲載していましたが、解説文がなかったので再掲しました。
高岡市のHP.の「桜谷古墳」の項目で、「桜谷古墳の概要 桜谷古墳群は、二上丘陵北側の標高20メートル前後の台地上に立地し、東西約300メートル、南北約150メートルの範囲に計13基以上の古墳で構成されている。 1号墳は全長62メートルあり、4世紀初頭(300年頃)の築造と考えられている。昭和51~2(1976~7)、県道バイパス(現国道415号線)工事に伴う発掘調査によって、1号墳の周溝が発見され、前方後方墳の可能性が高まった。また、1号墳の周溝の南側で検出された箱式石棺からは鉄鉾が出土している。2号墳は全長50メートルあり、帆立貝式の前方後円墳で4世紀中頃(350年頃)の築造と考えられている。」と記されています。
この古墳は、1号墳とともに「桜谷古墳」という名称で、国の史跡に指定されています。
高岡市教委の説明板。
石柱。
墳丘上の石柱。「櫻谷古墳 第二古墳」
後円部右側。左側。

前方部右側。左側。

前方部から後円部。前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。


後円部端部分。
以上2014年6月撮影。
追記 新たに訪問した時の絵を掲載します。
富山県教委・高岡市教委の説明板。
標柱。
後円部中央。右側。左側。


前方部右側。左側。

前方部から後円部。
後円部墳頂。
2つで全景。手前が前方部、奥が後円部。
以上2025年4月撮影。
高岡市のHP.の「桜谷古墳」の項目で、「桜谷古墳の概要 桜谷古墳群は、二上丘陵北側の標高20メートル前後の台地上に立地し、東西約300メートル、南北約150メートルの範囲に計13基以上の古墳で構成されている。 1号墳は全長62メートルあり、4世紀初頭(300年頃)の築造と考えられている。昭和51~2(1976~7)、県道バイパス(現国道415号線)工事に伴う発掘調査によって、1号墳の周溝が発見され、前方後方墳の可能性が高まった。また、1号墳の周溝の南側で検出された箱式石棺からは鉄鉾が出土している。2号墳は全長50メートルあり、帆立貝式の前方後円墳で4世紀中頃(350年頃)の築造と考えられている。」と記されています。
この古墳は、1号墳とともに「桜谷古墳」という名称で、国の史跡に指定されています。
高岡市教委の説明板。
石柱。
墳丘上の石柱。「櫻谷古墳 第二古墳」
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。
後円部端部分。
追記 新たに訪問した時の絵を掲載します。
富山県教委・高岡市教委の説明板。

標柱。
後円部中央。右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。
後円部墳頂。
2つで全景。手前が前方部、奥が後円部。
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07:07
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2024年12月06日
番外 富山県の古墳① 若宮古墳 小矢部市 50m
古墳は、「若宮古墳公園」として、整備・保存されています。
小矢部市のHP.の「若宮古墳(史跡)」の項目で、「昭和34年に発見され、昭和60年の調査により、全長約50.0メートル、前方部幅約19.0メートル、後円部径約28.0メートル、前方部高約4.4メートル、後円部高約5.6メートルの前方後円墳であることが確認された。出土した須恵器と円筒埴輪から、築造時期は6世紀初頭と推定される。」と記されています。
また、埴輪が埋葬された古墳としては、富山県最古の古墳だそうです。高橋浩二さんは、「小矢部地域の若宮古墳(五〇)は木炭槨に銅製三輪玉等を副葬し、越中では初現の埴輪(Ⅴ期)、須恵器(TK47型式)が出土している。小矢部地域ではこれを最後に大型古墳が途絶する。」と述べています。(「七 北陸」p.371、広瀬和雄・和田晴吾編『講座 日本の考古学7 古墳時代上』所収)
古墳は、富山県の史跡に指定されています。
富山県教委・小矢部市教委の説明板。
説明板。
後円部右側。左側。

前方部。
前方部から後円部。
前方部左側から後円部。
後円部墳頂。
全景(手前が前方部、中央奥が後円部)。南から。
以上2014年6月撮影
小矢部市のHP.の「若宮古墳(史跡)」の項目で、「昭和34年に発見され、昭和60年の調査により、全長約50.0メートル、前方部幅約19.0メートル、後円部径約28.0メートル、前方部高約4.4メートル、後円部高約5.6メートルの前方後円墳であることが確認された。出土した須恵器と円筒埴輪から、築造時期は6世紀初頭と推定される。」と記されています。
また、埴輪が埋葬された古墳としては、富山県最古の古墳だそうです。高橋浩二さんは、「小矢部地域の若宮古墳(五〇)は木炭槨に銅製三輪玉等を副葬し、越中では初現の埴輪(Ⅴ期)、須恵器(TK47型式)が出土している。小矢部地域ではこれを最後に大型古墳が途絶する。」と述べています。(「七 北陸」p.371、広瀬和雄・和田晴吾編『講座 日本の考古学7 古墳時代上』所収)
古墳は、富山県の史跡に指定されています。
富山県教委・小矢部市教委の説明板。
説明板。
後円部右側。左側。
前方部。
前方部から後円部。
前方部左側から後円部。
後円部墳頂。
全景(手前が前方部、中央奥が後円部)。南から。
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07:07
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2024年12月04日
番外の追加 愛知県の古墳㊴の追加 豊田大塚古墳 帆立貝形前方後円墳 約50m
2024年8月8日のブログに「番外 愛知県の古墳㊴」として掲載した豊田大塚古墳の追加です。掲載した絵は、今から14年以上前だったので、新しい絵を撮ろうと思い再訪しました。古墳の周囲は高層マンションや新興住宅地が取り囲み、昔のおぼろげなイメージとは異なっていました。また、説明板が新しくなり、石室の覆屋も改築されて石室内が見やすくなっていました。
前回のブログとほぼ同じ内容ですが、墳形については円墳とする記述が多く見られたので、今回も書きました。「くどすぎるダラー」。
奈良女子大学の「全国古墳データベース」の「豊田大塚古墳」の項目では、「墳丘 形状:円墳 築成:2段 規模:東西31、南北30m、高3.5m」と記されています。また、『愛知県史 資料編3 考古3古墳』でも、森泰通さんは、「報告書による墳丘トレンチの観察や、現況平面図から判断すれば、本墳は標高59.5m付近を墳丘裾部とする直径約30m、高さ3.5mの円墳となる。」(「146 豊田大塚古墳」p.454)と述べています。
しかし、近年では、「6世紀前半築造の豊田大塚古墳は墳長50m程の帆立貝式古墳で、西三河地域の後期古墳の中で最大規模です。石室からは装飾須恵器をはじめとして卓越した副葬品が出土しました。この古墳に葬られた人物は、西三河地域では比類なき力を持つ盟主であったと考えられます。」(「豊田市博物館」の展示ガイド、「弥生・古墳」の「地域の王の姿」)とされています。そのため、後円部や前方部の数値は不明ですが、ここでは全長50mの帆立貝形前方後円墳としました。 ただし、おっさんの眼力では、前方部がどの場所かわからなかったので、下の絵では後円部しか撮ってありません。
古墳は愛知県の史跡に指定され、出土した須恵器は重要文化財に指定されています。
案内標識。
石柱。
豊田市教委の説明板。
石室内部。南から。北から。

後円部墳頂の覆屋。
後円部中央。右側。左側。


遠景。南西から。
以上2024年11月撮影。
前回のブログとほぼ同じ内容ですが、墳形については円墳とする記述が多く見られたので、今回も書きました。「くどすぎるダラー」。
奈良女子大学の「全国古墳データベース」の「豊田大塚古墳」の項目では、「墳丘 形状:円墳 築成:2段 規模:東西31、南北30m、高3.5m」と記されています。また、『愛知県史 資料編3 考古3古墳』でも、森泰通さんは、「報告書による墳丘トレンチの観察や、現況平面図から判断すれば、本墳は標高59.5m付近を墳丘裾部とする直径約30m、高さ3.5mの円墳となる。」(「146 豊田大塚古墳」p.454)と述べています。
しかし、近年では、「6世紀前半築造の豊田大塚古墳は墳長50m程の帆立貝式古墳で、西三河地域の後期古墳の中で最大規模です。石室からは装飾須恵器をはじめとして卓越した副葬品が出土しました。この古墳に葬られた人物は、西三河地域では比類なき力を持つ盟主であったと考えられます。」(「豊田市博物館」の展示ガイド、「弥生・古墳」の「地域の王の姿」)とされています。そのため、後円部や前方部の数値は不明ですが、ここでは全長50mの帆立貝形前方後円墳としました。 ただし、おっさんの眼力では、前方部がどの場所かわからなかったので、下の絵では後円部しか撮ってありません。
古墳は愛知県の史跡に指定され、出土した須恵器は重要文化財に指定されています。
案内標識。
石柱。
豊田市教委の説明板。
石室内部。南から。北から。
後円部墳頂の覆屋。
後円部中央。右側。左側。
遠景。南西から。
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07:07
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2024年12月02日
番外 愛知県の古墳59 百々(どうど)古墳 豊田市 墳形・規模不詳
消滅古墳です。今回の豊田市古墳訪問の目玉の一つでした。三角縁神獣鏡を出土した前期古墳として、この古墳名は何度か目にしていました。ところが、訪問のための下調べでは、この古墳の跡地は、「豊田市百々町3丁目」以上のことは不明でした。
そのため、おっさんの経験上、前期古墳は眼下に被葬者の支配領域が見渡せる里山の頂上付近に築造されるケースが多いことから、跡地として可能性のある場所を2カ所絵に撮ってみました。
候補地①:台地の端部から領域が広く見渡せる場所です。ただし、頂上付近ではありません。
候補地②:①より標高が高く、現在墓地となっている場所です。古墳の墳丘上に、墓地や神社の社殿があることは珍しくありません。
しかし、おっさんのような「迷探偵」では役不足なので、「コナンくん」の登場を待つしかないようです。
余談ですが、伊奈森太郎筆、松村冬樹編輯・補筆「明治20年代における愛知県古墳時代遺跡分布調査(三河編Ⅰ)」では、「百々古墳 (5001)」として「高橋村大字百々字百々 宅地(百々町) ①(おっさん註 形状)全壊 ②(おっさん註 大きさ)不明 ③(おっさん註 遺物)鉄鎧、祝部 ⑦(おっさん註 現状其他)この夏に村役場建築の際石槨破壊。今原形無し。吉田一慶氏宅地となっている。」と記されていました。
現在の住宅地図の「百々町3丁目」内で、吉田さん宅を探してみましたが、見つかりませんでした。やはり、「コナンくん」にはかないそうにありません。
余談の余談ですが、上記「分布調査(三河編Ⅰ)」では、何故か鏡が遺物として記載されていません。『愛知県史 資料編3 考古3古墳』で、森泰通さんは、「1963年に大阪市立博物館(現:大阪歴史博物館)が、豊田市百々町の地名が箱書きされた三角縁神獣鏡を購入した。一方、『尾三出土古鏡譜』(個人蔵)に「三河国西加茂郡高橋村大字百々古墳発見三神三獣鏡」とされる鏡の拓本があり、両者は同じ鏡であることが判明した。」(「141 百々古墳」p.443)と述べています。
これからはおっさんの妄想ですが、百々古墳出土の三角縁神獣鏡は、完形の優品であるために、関係者から古物商に売買され所有者が転々としながら、最終的に大阪の博物館の収蔵品となった。「鏡よ、鏡よ、鏡さん。あなたはいったい何処から来たの?」。
余談の余談の余談ですが、下記の平井大塚古墳の説明板では、「本墳の北1.5kmには三角縁神獣鏡が出土した百々古墳」という記載があります。ただし、「北1.5km」は離れ過ぎで誤記のようです。平井大塚古墳から約700m北東に、この百々古墳が位置していたと思われます。
『愛知県史 資料編3 考古3古墳』でも、「南西約700mには中期古墳となる可能性の高い平井大塚古墳がある。」と森泰通さんは述べています。(「141 百々古墳」p.443)
跡地候補①。「百々区民会館」。その拡大。

百々区民会館から南西方面を見る。
跡地候補②。「百々墓地(下)」。
豊橋市教委の「平井大塚古墳」の説明板。
以上2024年11月撮影。
そのため、おっさんの経験上、前期古墳は眼下に被葬者の支配領域が見渡せる里山の頂上付近に築造されるケースが多いことから、跡地として可能性のある場所を2カ所絵に撮ってみました。
候補地①:台地の端部から領域が広く見渡せる場所です。ただし、頂上付近ではありません。
候補地②:①より標高が高く、現在墓地となっている場所です。古墳の墳丘上に、墓地や神社の社殿があることは珍しくありません。
しかし、おっさんのような「迷探偵」では役不足なので、「コナンくん」の登場を待つしかないようです。
余談ですが、伊奈森太郎筆、松村冬樹編輯・補筆「明治20年代における愛知県古墳時代遺跡分布調査(三河編Ⅰ)」では、「百々古墳 (5001)」として「高橋村大字百々字百々 宅地(百々町) ①(おっさん註 形状)全壊 ②(おっさん註 大きさ)不明 ③(おっさん註 遺物)鉄鎧、祝部 ⑦(おっさん註 現状其他)この夏に村役場建築の際石槨破壊。今原形無し。吉田一慶氏宅地となっている。」と記されていました。
現在の住宅地図の「百々町3丁目」内で、吉田さん宅を探してみましたが、見つかりませんでした。やはり、「コナンくん」にはかないそうにありません。
余談の余談ですが、上記「分布調査(三河編Ⅰ)」では、何故か鏡が遺物として記載されていません。『愛知県史 資料編3 考古3古墳』で、森泰通さんは、「1963年に大阪市立博物館(現:大阪歴史博物館)が、豊田市百々町の地名が箱書きされた三角縁神獣鏡を購入した。一方、『尾三出土古鏡譜』(個人蔵)に「三河国西加茂郡高橋村大字百々古墳発見三神三獣鏡」とされる鏡の拓本があり、両者は同じ鏡であることが判明した。」(「141 百々古墳」p.443)と述べています。
これからはおっさんの妄想ですが、百々古墳出土の三角縁神獣鏡は、完形の優品であるために、関係者から古物商に売買され所有者が転々としながら、最終的に大阪の博物館の収蔵品となった。「鏡よ、鏡よ、鏡さん。あなたはいったい何処から来たの?」。
余談の余談の余談ですが、下記の平井大塚古墳の説明板では、「本墳の北1.5kmには三角縁神獣鏡が出土した百々古墳」という記載があります。ただし、「北1.5km」は離れ過ぎで誤記のようです。平井大塚古墳から約700m北東に、この百々古墳が位置していたと思われます。
『愛知県史 資料編3 考古3古墳』でも、「南西約700mには中期古墳となる可能性の高い平井大塚古墳がある。」と森泰通さんは述べています。(「141 百々古墳」p.443)
跡地候補①。「百々区民会館」。その拡大。
百々区民会館から南西方面を見る。
跡地候補②。「百々墓地(下)」。
豊橋市教委の「平井大塚古墳」の説明板。
Posted by じこま at
07:07
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