2024年10月11日
番外 岐阜県の古墳⑤ 喪山「古墳」 垂井町 ?
垂井町の史跡となっている「古墳」なので訪問しました。西の高まりは、大規模な改変を受けているので断定はできませんが、おっさん的には古墳らしさは感じられませんでした。喪山は、昔の写真では前方後円墳風でしたが、奈良女子大学の『全国古墳データベース』には記載はありませんでした。「喪山だけにモヤモヤするダラー」。
『記紀』(『古事記』や『日本書紀』)に記載された「喪山」の比定地は、この垂井町の他に美濃市にあります。美濃市の方は「神話伝承地」として史跡に指定されています。垂井町も「古墳」」ではなく「神話伝承地」として位置づけた方がベターのような気がしました。石室や埴輪などの出土があれば、話は別ですが・・・。
「垂井町文化財アーカイブ」の「喪山古墳」の項目で、「詳細 周囲約200m、高さ約40mの瓢形の山で、別名葬送山とも呼ばれます。『古事紀』などにみえる天稚彦伝説の喪山ともいわれ、円墳か前方後円墳ではないかと推定されています。」と記されています。
「喪山古墳」という名称で、垂井町の史跡に指定されています。
垂井町教委の説明板。
西の高まり。右側。左側。

東の高まり。
遠景。
以上2013年2月撮影。
『記紀』(『古事記』や『日本書紀』)に記載された「喪山」の比定地は、この垂井町の他に美濃市にあります。美濃市の方は「神話伝承地」として史跡に指定されています。垂井町も「古墳」」ではなく「神話伝承地」として位置づけた方がベターのような気がしました。石室や埴輪などの出土があれば、話は別ですが・・・。
「垂井町文化財アーカイブ」の「喪山古墳」の項目で、「詳細 周囲約200m、高さ約40mの瓢形の山で、別名葬送山とも呼ばれます。『古事紀』などにみえる天稚彦伝説の喪山ともいわれ、円墳か前方後円墳ではないかと推定されています。」と記されています。
「喪山古墳」という名称で、垂井町の史跡に指定されています。
垂井町教委の説明板。
西の高まり。右側。左側。
東の高まり。
遠景。
Posted by じこま at
07:07
│Comments(0)
2024年10月09日
番外 岐阜県の古墳④ー0 北ケ谷?号墳か 本巣市 円墳?
北ケ谷1号墳(ランキング1229)位訪問の帰路、尾根上に古墳?を発見。墳丘らしき場所をパチリ。ただし、何の標識もなかったので目の錯覚だったかもしれません。
そのため、「④ー0 北ケ谷?号墳か」としました。
余談ですが、北ケ谷1号墳や西ノ門古墳がある大平山の南約2kmに、多数の群集墳が所在する船来山古墳群があります。船来山古墳群は、2018年に国の史跡に指定されています。
墳丘か?右側。左側。
以上2015年5月撮影。
そのため、「④ー0 北ケ谷?号墳か」としました。
余談ですが、北ケ谷1号墳や西ノ門古墳がある大平山の南約2kmに、多数の群集墳が所在する船来山古墳群があります。船来山古墳群は、2018年に国の史跡に指定されています。
墳丘か?右側。左側。
Posted by じこま at
07:07
│Comments(0)
2024年10月07日
番外 岐阜県の古墳④ 西ノ門古墳 本巣市 円墳 径不詳
大平山の中腹に位置する古墳です。大平山山頂付近の北ケ谷1号墳(大平山西峯前方後方墳)(ランキング1229位)に向かう途中に偶然見つけた古墳です。
北ケ谷1号墳の項目でも書きましたが、事前の準備もきちんとせず、小学校の校舎壁面の「登山道」を参考に古墳に向かいました。小学生が登るルートと油断して進んでいったので、この西ノ門古墳から北ケ谷1号墳まで15分ほどかかり結構苦労した記憶があります。「山をなめたらいかんダラー」。
この古墳の規模等の詳細については、確認できませんでした。
標柱。
説明板。
墳丘。
大平山遠景。
本巣小学校の校舎壁面の「登山道」。
以上2015年5月撮影。
北ケ谷1号墳の項目でも書きましたが、事前の準備もきちんとせず、小学校の校舎壁面の「登山道」を参考に古墳に向かいました。小学生が登るルートと油断して進んでいったので、この西ノ門古墳から北ケ谷1号墳まで15分ほどかかり結構苦労した記憶があります。「山をなめたらいかんダラー」。
この古墳の規模等の詳細については、確認できませんでした。
標柱。
説明板。
墳丘。
大平山遠景。
本巣小学校の校舎壁面の「登山道」。
Posted by じこま at
07:07
│Comments(0)
2024年10月05日
番外 岐阜県の古墳③ー4 野9号墳[野古墳群] 大野町 帆立貝形前方後円墳 31m
古墳は、8号墳の南に隣接しています。訪問時、円墳と思い込んで絵を撮っていました。
下記のHP.のデータを参考にすると、7.5m(30.5ー23)×2<23m<7.5m×4 なので「帆立貝形前方後円墳」でした。
大野町のHP.の「史跡の古墳群」の「◆野9号墳」の項目で、「帆立貝形前方後円墳 / 主軸全長約30.5m、後円部の直径約23m、円部の高さ約6m 周壕から円筒埴輪片、須恵器片が出土しています。」と記されています。
「野古墳群」を構成する一基として、国の史跡に指定されています。
標柱。
後円部端全景。北から。
前方部から後円部。南から。
以上2016年5月撮影。
下記のHP.のデータを参考にすると、7.5m(30.5ー23)×2<23m<7.5m×4 なので「帆立貝形前方後円墳」でした。
大野町のHP.の「史跡の古墳群」の「◆野9号墳」の項目で、「帆立貝形前方後円墳 / 主軸全長約30.5m、後円部の直径約23m、円部の高さ約6m 周壕から円筒埴輪片、須恵器片が出土しています。」と記されています。
「野古墳群」を構成する一基として、国の史跡に指定されています。
標柱。
後円部端全景。北から。
前方部から後円部。南から。
Posted by じこま at
07:07
│Comments(0)
2024年10月03日
番外 岐阜県の古墳③ー3 野8号墳[野古墳群] 大野町 方墳 辺16m
この古墳は、前方後円墳の不動塚古墳(ランキング[979-2]位)の南に近接する方墳です。野古墳群では、この8号墳と15号墳が方墳です。
大野町のHP.の「史跡の古墳群」の「◆野8号墳」の項目で、「方墳 / 辺長約15.8m、高さ約3m」と記されています。
「野古墳群」を構成する一基として、国の史跡に指定されています。
標柱。
全景。北から。
以上2016年5月撮影。
大野町のHP.の「史跡の古墳群」の「◆野8号墳」の項目で、「方墳 / 辺長約15.8m、高さ約3m」と記されています。
「野古墳群」を構成する一基として、国の史跡に指定されています。
標柱。
全景。北から。
Posted by じこま at
07:07
│Comments(0)
2024年10月01日
番外 岐阜県の古墳③ー2 野7号墳[野古墳群] 大野町 帆立貝形前方後円墳 29m
訪問時、この古墳は円墳と思って絵を撮っていました。
下記の大野町教委の案内標識では、「造り出し付き円墳」と記されていましたが、下記のHP.によると「帆立貝形前方後円墳」となっていました。HP.のデータを参考にすると、6.4m(29ー22.6)×2<22.6m[後円部直径]<6.4m×4 となるので、6.4mの部分については、「造り出し」というよりも「(帆立貝形前方後円墳の)前方部」が妥当のようです。(おっさん註 近藤義郎編『前方後円墳集成』の「帆立貝形前方後円墳」と「造出付円墳」の定義を参考にしています。)
大野町のHP.の「史跡の古墳群」の「◆野7号墳」の項目で、「帆立貝形前方後円墳 / 主軸全長約29m、後円部の直径約22.6m、円部の高さ約4.2m 墳丘から円筒埴輪や朝顔型埴輪、石室より須恵器、管玉、鉄鏃などが出土しています。」と記されています。
「野古墳群」を構成する一基として、国の史跡に指定されています。
標柱。
北から。
北北東から。
大野町教委の案内標識。
以上2016年5月撮影。
下記の大野町教委の案内標識では、「造り出し付き円墳」と記されていましたが、下記のHP.によると「帆立貝形前方後円墳」となっていました。HP.のデータを参考にすると、6.4m(29ー22.6)×2<22.6m[後円部直径]<6.4m×4 となるので、6.4mの部分については、「造り出し」というよりも「(帆立貝形前方後円墳の)前方部」が妥当のようです。(おっさん註 近藤義郎編『前方後円墳集成』の「帆立貝形前方後円墳」と「造出付円墳」の定義を参考にしています。)
大野町のHP.の「史跡の古墳群」の「◆野7号墳」の項目で、「帆立貝形前方後円墳 / 主軸全長約29m、後円部の直径約22.6m、円部の高さ約4.2m 墳丘から円筒埴輪や朝顔型埴輪、石室より須恵器、管玉、鉄鏃などが出土しています。」と記されています。
「野古墳群」を構成する一基として、国の史跡に指定されています。
標柱。
北から。
北北東から。
大野町教委の案内標識。
Posted by じこま at
07:07
│Comments(0)