2021年02月07日

番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m

 前回まで、豊橋市の「石巻古墳群(仮称)」の前方後方墳を中心に掲載してきましたが、東三河地域の前方後方墳として、欠かすことができないのがこの古墳です。7年以上前に訪問していましたが、どの部分を撮った絵か記憶・データがなかったので再訪しました。今回は、想定どおり誰一人出会うことなく訪問できました。前回の訪問では、墳丘上の一部に草木が生え墳形が分かりにくい状況でしたが、今回は草木が部分的に刈られていました。ただ、刈草・枝がそのまま残っていたので・・・でした。
 古墳は、新城市立東郷中学校の裏山というより「長篠・設楽原の戦」の激戦地に立地しています。近接した9号墳とともに、「断上山古墳(第9号古墳/第10号古墳)」として、愛知県の史跡に指定されています。
 須川勝以さんは、「同じ調査(おっさん註 1973年実施の愛知県教委による確認調査)で第10号墳は、墳長50mの前方後円墳とされたが、発掘調査時の状況は贄の指摘するとおり(おっさん註 贄元洋さんは、「報告書は発掘の結果、前方後円墳としているが、前方後方墳と考えられる」と述べています。(「断上10号墳」p.329、近藤義郎編『前方後円墳集成 中部編』所収)にむしろ前方後方墳であることを示しており、95年の測量図(おっさん註 愛知県史編さん室の測量調査)はまさにそれを裏づけた。前方後方墳としての本墳の規模は、墳長50m、後方部辺30m・高さ6m、前方部長20m・幅14m・高さ1.5mをそれぞれ測る。(中略)第10号墳には葺石がないが、墳丘の北側に全周しない幅6m程度の周濠をもつ。また後方部は3段築成となる可能性が発掘調査で指摘されている。」と述べています(「218 断上山古墳群」p.649、『愛知県史 資料編3 考古3 古墳』所収)。
 上記の引用文では否定していますが、後方部の墳頂付近に丸い河原石を何個か見つけ、「葺石」かなと思いました。  
 余談ですが、新城市教委の新旧説明板の測量図は、全く同一でどう見ても「前方後円墳」にしか見えません。旧説明板では致し方ありませんが、新説明板では、上記「95年の測量図」を載せてほしかったです。「きっといろんな事情があったんだらー」。


 案内板。標柱。新城市教委の説明板。
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m


 後方部中央。右側。左側。
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m

 前方部右側。左側。
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m


 前方部から後方部。前方部右隅から後方部。
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m

 後方部墳頂。後方部端全景。
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m


 全景(横から)。右が後方部、左が前方部。
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m

 全景。左手前が前方部、中央奥が後方部。
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m
            以上2021年2月撮影。


 旧標柱。新城市教委の旧説明板。
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m


 後方部右側。左側。
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m

 前方部右側。左側。
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m


 前方部から後方部。
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m

 全景。左手前が前方部、中央奥が後方部。
番外 断上山10号墳 愛知県新城市 前方後方墳 50m
            以上2013年8月撮影。



Posted by じこま at 08:08│Comments(0)
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