2019年03月20日
1226 忍勝寺山古墳 岐阜県垂井町 60m
奈良女子大学の前方後円墳データベースの「忍勝寺山古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:現存59.6m 後円部:径59.6×54.6m 高2.8m 特記事項【周濠】あり。【その他】前方部削平され、後円部墳頂部も整地される。大正年間に発掘されたと伝えられる。」と記されています。また、HP.「垂井町文化財アーカイブ」の「忍勝寺山古墳」の項目で、「詳細 直径60mの帆立貝式円墳(おっさん註 「帆立貝式円墳」という表現は初めて目にしました。直径60mの円墳状の帆立貝式古墳という意味でしょうか)です。5世紀後半に築造されたとおもわれます。鉄鏃や銅鏃、直刀、香炉状のものが出土したと伝えられています。」と記されています。垂井町の史跡に指定されています。
古墳は、小河川をはさんで忍勝寺の西側の平地に立地しています。約300m南東に美濃国府跡があり、この地が古墳時代においても政治の中枢部であった可能性も考えられます。上記のように、後円部の墳頂には広い平坦面があり、石塔や祠が祀られています。ただ、削平された前方部がどこにあるのかが明確な資料を見つけることができなかったので、「帆立貝形前方後円墳」としての絵はありません。
約1500m北東に親ヶ谷古墳(ランキング501位)があります。
垂井町教委の説明板。
後円部墳頂2つ。

後円部全景。南から。
後円部全景。西から。
以上2016年5月撮影。
後円部墳頂。
後円部全景。南から。
後円部全景。南西から。
以上2013年2月撮影。
古墳は、小河川をはさんで忍勝寺の西側の平地に立地しています。約300m南東に美濃国府跡があり、この地が古墳時代においても政治の中枢部であった可能性も考えられます。上記のように、後円部の墳頂には広い平坦面があり、石塔や祠が祀られています。ただ、削平された前方部がどこにあるのかが明確な資料を見つけることができなかったので、「帆立貝形前方後円墳」としての絵はありません。
約1500m北東に親ヶ谷古墳(ランキング501位)があります。
垂井町教委の説明板。
後円部墳頂2つ。
後円部全景。南から。
後円部全景。西から。
後円部墳頂。
後円部全景。南から。
後円部全景。南西から。
Posted by じこま at
09:09
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2019年03月20日
1225 生坪塚山(なまつぼつかやま)古墳 熊本県合志市 60→(円墳 径30m)
合志市のHP.の「生坪塚山古墳(市指定文化財)」の項目で、「本市と菊池市泗水町の境の生坪区にある、古墳時代前期(5世紀頃)(おっさん註 5世紀は古墳時代前期??)の円墳です。 直径約30m、高さ約4mあり、墳丘のすそ部分が少し削られていますが、築造当時の原型をほぼ留めています。当時、一帯を治めていた豪族の墓だと考えられます。 発掘調査を行っていないため、詳しいことは不明ですが、古墳の頂上に立つ板石が棺のふたと伝えられていることから、古墳内部には箱式石棺(石の板を張り、直接死者の棺桶としたもの)か竪穴式石室(石を積み上げて造られたお墓のうち、出入り口を上部に設けたもの)のどちらかがあると考えられています。」と記されています。ランキングの参考にさせていただいている、HP.「古墳探訪」では、全長60mの前方後円墳と記されていますが、ここでは円墳として書いていきます。合志市の史跡に指定されています。
説明板の文字が風雨に耐え切れず消失し、ホワイトボード状態です。文字が残っていた頃の画像では、合併以前の西合志町教育委員会が設置したものでした。前方部が削平された前方後円墳と言われれば納得してしまいそうな雰囲気のある円墳です。墳頂には、石室の石材として用いられたと考えられている2基の立石があります。部分的に朱の跡が見られると言われていますが、訪問時は全く気がつきませんでした。「もっとしっかり見りん」。
西合志町教委の説明板。
墳頂の石材か2つ。

全景。西から。
全景。南東から。
以上2015年11月撮影。
説明板の文字が風雨に耐え切れず消失し、ホワイトボード状態です。文字が残っていた頃の画像では、合併以前の西合志町教育委員会が設置したものでした。前方部が削平された前方後円墳と言われれば納得してしまいそうな雰囲気のある円墳です。墳頂には、石室の石材として用いられたと考えられている2基の立石があります。部分的に朱の跡が見られると言われていますが、訪問時は全く気がつきませんでした。「もっとしっかり見りん」。
西合志町教委の説明板。
墳頂の石材か2つ。
全景。西から。
全景。南東から。
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08:08
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