2019年03月05日

1200 下里古墳 和歌山県那智勝浦町 60(約40・約45 )m

 HP.「きのくに風景讃歌」の「下里古墳」の項目で、「形状は前方後円墳で、全長約45m、後円部の径約22m、墳丘の高さ約2.5mで、周囲には幅約5mの環濠がめぐらされていました。前方部には明治期まで神社が建てられ、ほとんど封土が失われていますが、ここに竪穴式石室があり、今もその石材の一部が残っています。また、後円部の斜面には葺石として用いられた河原石が今も残っています。」と記されています。また、奈良女子大学の前方後円墳データベースの「下里古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 築成:後円部:2段 墳長:60以上 後円部:径22m 高2.75m 前方部:幅11m 長:16.5m 高0.8m」と記されています。下記の説明板では、「墳丘の全長は約40m」と示されています。国の史跡に指定されています。
 本州で最南端の地に築造された古墳です。JR.紀勢本線の「下里」駅の約150m北に位置しています。一つ北側が「太地」駅で、捕鯨で有名な地域です。古墳は築造当時、太田川の河口付近の砂丘上に立地していたそうです。上記のように、前方部は削平されて現状では円墳状態です。このことが、古墳の全長について大きな差異がある原因かもしれません。ただし、後円部墳頂には、石室の蓋石と思われる石材が数点残っていました。
 紀伊半島南部には、この古墳を除いて前方後円墳は築造されていないことから、貴重な古墳であることは間違いありません。被葬者は、熊野灘の海運にかかわった人物が想定されます。

 那智勝浦町教委の説明板。


 後円部右側。左側。

 前方部跡。前方部跡から後円部。


 前方部右隅跡から後円部。前方部左隅跡から後円部。


 後円部墳頂2つ。


 全景(横から)。右が前方部跡、左が後円部。北から。


 那智勝浦町の臨時駐車場。
            以上2015年11月撮影。  


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2019年03月05日

補遺[701-4] 生家大塚(ゆくえおおつか)古墳(津屋崎33号墳) 福岡県福津市 54→(73)m

 ランキングの参考にさせていただいている、HP.「古墳探訪」では、全長54mの「津屋崎33号墳」として掲載されていたため、見落としていました。津屋崎古墳群の参考資料にこの古墳が掲載されていたので、気づくことができました。
 福岡県福津市のパンフレット「国指定史跡 津屋崎古墳群」の「❺ 生家大塚古墳」の項目で、「前方部の大半を失っていますが全長73mの前方後円墳で、周りに溝と堤がめぐらされています。埴輪や須恵器が出土しています。(5世紀後半)」と記されています。奈良女子大学の前方後円墳データベースの「津屋崎33号墳」の項目では、「墳丘 形状:前方後円 墳長:推定54m 後円部:径46m 高9? 特記事項【周濠】あり(後円部背面のみ)。【その他】前方部は削平。」と記されていました。「津屋崎古墳群」を構成する古墳のひとつとして、国の史跡に指定されています。
 古墳は、津屋崎古墳群の中の支群的存在(おっさん註 古墳群の性格が異なるようなので支群としていいのかよくわかりません)の新原・奴山古墳群と須多田古墳群の間に位置しています。国道495号線沿いの「津屋崎ミルクセンター」を東に折れ、低い丘陵地を南に上ると大塚神社があります。道路をはさんで、その東側の林の中に古墳があります。前方部は削平されて一部分しか残存していませんが、高さのある後円部は残されていました。墳頂には祠が祀られていました。


 後円墳右側。左側。

 前方部残存部。→前方部残存部ではなさそうです。訂正します。


 後円部墳頂。


 後円部墳裾か。


 隣接する大塚神社。
                   以上2011年6月撮影。


   追記

 2020年2月24日のブログに、「追加『補遺[701-4] 生家大塚古墳』」として、新しい絵を掲載しています。  


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