2019年02月04日

1138-2 導善寺古墳のおまけの「風楽寺古墳・風楽寺南古墳」 佐賀県佐賀市

 2基の古墳は、導善寺古墳の約200m東に位置しています。名称のように、風楽寺古墳の南に隣接して風楽寺南古墳があります。いずれも、墳丘上に墓石が立ち並ぶ「墓地古墳」です。ただし、風楽寺古墳は前方後円形を確認することができます。南古墳は、従来短い前方部が付属する帆立貝形前方後円墳とされていましたが、現在は円墳と考えられているようです。

  ① 風楽寺古墳 前方後円墳 46m

 全景(横から)。右が前方部、左が後円部。北から。。


 全景。右が前方部、左奥が後円部。西から。


 全景。右手前が後円部、左奥が前方部。南西から。


 全景(横から)。右が後円部、左が前方部。南から。


  ② 風楽寺南古墳 円墳 径30m

 全景。北西から。


 墳頂。
            以上2013年10月撮影。  


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2019年02月04日

1138 導善寺古墳 佐賀県佐賀市 60m

 佐賀市のHP.の「佐賀市史跡」の「導善寺(どうぜんじ)前方後円墳」の項目で、「低位段丘上に立地する古墳で全長60m、一(ママ)段の前方部を西側にとり、幅20m、長さ23m、高さ1mを測ります。後円部は2段で径38m、高さ4mを測ります。 築造年代は5世紀前半と推定されています。」と記されています。また、奈良女子大学の前方後円墳データベースの「道(ママ)善寺古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 築成:前方部:1段、後円部:2段 墳長:51(推定60以上) 後円部:径42m 高3.8m 前方部:幅24m 長24.4m 高1.7m 特記事項【その他】前方部にはかつて道(ママ)善寺という寺が建っていたようで、いくらか削平されている。」と記されています。 
 上記のように、前方部上部は削平され平坦面が広がっています。後円部も幾分高まりが残っていますが、改変されています。ただ、後円部墳頂には、歴史の重みを感じさせる祠が祀られていました。
 この古墳に近接して風楽寺古墳・風楽寺南古墳があります。また、約3km北に佐賀県で規模最大の船塚古墳(ランキング189位)があります。余談ですが、佐賀県の前方後円墳は、長崎自動車道の「鳥栖」IC.から「多久」IC.にかけての周辺に多くあるような気がします。

 佐賀市の説明板。



 後円部。西から

 前方部。東から。


 後円部墳頂。墳頂の祠。


 全景(横から)。右が前方部、左が後円部。北西から。
            以上2013年10月撮影。  


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2019年02月04日

1137 保津山東1号墳 京都府亀岡市 60m

 亀岡市企画管理部秘書広報課編集発行「キラリ☆亀岡 第610号 平成26年(2014年)2月2日発行」の中で、「保津山東古墳群は、亀岡盆地の東に位置する保津町の山腹・山麓にみられる古墳群で、東支群11基と、西支群8基で構成されています。 中でも、西支群に属する保津山東1号墳は、その形状や立地から古墳時代前期に築造されたものと推定され、全長約60メートル(略測)に及ぶ大規模な前方後円墳と考えられています。また、亀岡市内における前方後円墳で、古墳時代前期に築造されたと考えられる唯一のものであることから、この時代に亀岡盆地を治めた有力首長が存在したことを示す手がかりとして、注目される古墳です。」と記されています。
 古墳は、桂川に南面する保津山の丘陵地に立地しています。訪問時、山中にどこから入っていいかわからず、地元の人らしき人に地図を示しながら現在地を確認しようとしましたが不明で、とにかく獣道すらない斜面を力づくで上っていきました。やっとの思いで丘陵上の平坦地にたどり着きました。そこには、今までの苦労が嘘のように、美しい墳丘をした1号墳がありました。後円部墳頂には若干の窪みが見られましたが・・・。また、墳丘上には、なぜか「三」と示された立石がありました。

 後円部右側。左側。

 前方部右側。左側。前方部から後円部。


 前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。


 後円部墳頂。


 後円部端やや全景。


 墳丘上の「三」銘立石。
            以上2015年3月撮影。  


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