2019年02月12日

1158 持田34号墳 宮崎県高鍋町 60m

 奈良女子大学の前方後円墳データベースの「持田34号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60m 後円部:径32.5m 高5.7m 前方部:幅30m 長27m 高4.8m」と記されています。「持田古墳群」を構成する古墳のひとつとして、国の史跡に指定されています。
 台地上に立地する持田古墳群の中では、計塚古墳(1号墳)(ランキング160位)、48号墳(ランキング603位)に次ぐ規模があり、後円部の裾部が小道でやや削られていますが、墳丘は整備されて美しい姿を見せています。北側に茶畑・南側に林が広がっています。前にも書きましたが、この34号墳の南側の道路を上っていくと48号墳があり、隣接して「高鍋大師」と呼ばれる古墳の被葬者の霊を祀るために、個人が造立した個性的な石像群があります。

 木柱。



 後円部中央。右側。左側。

 前方部右側。左側。


 前方部から後円部。前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。


 全景(横から)。右が後円部、左が前方部。北西から。
            以上2017年11月撮影。


 旧木柱。


 後円部右側。左側。

 前方部右側。左側。
              以上2012年2月撮影。  


Posted by じこま at 10:10Comments(0)

2019年02月12日

1157 尾ノ上古墳 広島県福山市 60m

 「消滅古墳」です。現在は前方部跡が空地、後円部跡が住宅地になっていると思われます。詳しい資料がないのでよくわかりませんが、県道21号線の「粟根」バス停から約100m南東の丘陵地にあったと思われます。
 奈良女子大学の前方後円墳データベースの「尾ノ上古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 築成:後円部:3段 墳長:60m 後円部:径33m 高5m 前方部:長30前後 特記事項【その他】1999年、福山市の北部の神辺平野で発見されたが、工事によって破壊。地域史復元に重要な遺跡である。」と記されています。
 余談ですが、福山市は現在の行政上は広島県に属していますが、律令時代の行政区では備後となります。したがって、古墳が築造された頃は、巨大古墳が多数築造された「吉備」になると思われます。

 跡地付近。南から。


 跡地付近。西から。
            以上2017年5月撮影。  


Posted by じこま at 09:09Comments(0)

2019年02月12日

1156 伯耆国分寺古墳 鳥取県倉吉市 前方後方(円)墳 60m

 倉吉市のHP.の「社地区の文化財」の「・[市指定史跡] 国分寺古墳」の項目で、「古墳時代前期の古墳です。もともとは全長60mの前方後円墳と推定され、江戸時代に再建された国分寺本堂造営工事により現在は原型(ママ)を留めていません。大正11年に発掘され、木棺からき鳳鏡(きほうきょう)、三角縁神獣鏡、二神二獣鏡、鉄器類、多量の水銀朱が出土しました。」と記されています。倉吉市の説明板には、「北側に前方部が延びる全長六〇mの前方後円墳とされていたが、市史の測量調査の結果などから方後方墳(おっさん註 「前」の字が欠けている)の可能性も指摘されている。」と記されています。ここでは、「前方後方(円)墳」として書いていきます。「国分寺古墳」という名称で、倉吉市の史跡に指定されています。
 古墳は、天神川北岸の河岸段丘上に立地し、国分寺の境内に位置しています。ただし、前方部から後方(円)部の一部は削平され、後方(円)部の端部分も本堂で削られています。訪問時は、お寺の関係者に一声かけて見学させてもらいました。

 倉吉市教委の説明板。
            「方後方墳」となって「前」が抜けている。

 後方(円)部残存部。南東から。


 後方(円)部残存部。東から。


 ほぼ全景(横から)。右が前方部跡、左が後方(円)部残存部。北東から。


 鳥取県教委の「古墳出土品」の説明板。
            以上2016年4月撮影。  


Posted by じこま at 08:08Comments(0)