2019年02月11日
1155 寺山古墳(強戸村138号墳) 群馬県太田市 前方後方墳 60(55)m
太田市教育委員会のHP.「太田市の文化財」の中の「寺山古墳」の項目で、「金山丘陵の北西端、県道足利・伊勢崎線から南400mにある。高さ20m程の小丘陵頂部に造られた古墳である。 墳形は現存する古墳では市内唯一の前方後方墳で前方部を西側の水田地帯に向けている。大きさは、全長約60m、後方部幅33m、前方部幅23m、後方部高さ6m、前方部高さ4mである。 この古墳の造られた時期は4世紀後半頃と考えられる。」と記されています。ただし、太田市教育委員会文化財課の発行するパンフレット「太田市の古墳」では、「③寺山古墳 金山丘陵北西に立地している全長約55mの前方後方墳です。川原石などが墳丘表面に見られることから、葺石されていたものと想定されています。 小型器台などの土師器が出土しています。」と記されています。同じ教育委員会の記述でデータが異なっており、「どっちやねん」とツッコミを入れてしまいそうですが、きっと再測量か何かで異なってきた新旧のデータを訂正せずにそのまま記述したと「好意的」に考えておきましょう。まさか、「約55=約60」ということではないでしょうね。2011年に、太田市の史跡に指定されています。
古墳は、上記のように丘陵頂部に立地し、整備されて美しい墳丘を見せています。ただ、前方部の一部は、草木が残されており立ち入らないようにロープが張られていました。訪問時、整備途中だったかも。
石柱。太田市教委の説明板。

後方部右側。左側。

前方部右側。左側。

全景(横から)。右が後方部、左が前方部。南から。
以上2015年1月撮影。
古墳は、上記のように丘陵頂部に立地し、整備されて美しい墳丘を見せています。ただ、前方部の一部は、草木が残されており立ち入らないようにロープが張られていました。訪問時、整備途中だったかも。
石柱。太田市教委の説明板。
後方部右側。左側。
前方部右側。左側。
全景(横から)。右が後方部、左が前方部。南から。
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10:10
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2019年02月11日
1154 大生西部5号墳 茨城県潮来市 60m
奈良女子大学の前方後円墳データベースの「大生西部5号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60m 後円部:径34m 高5m」と記されています。「大生古墳群」を構成する古墳のひとつとして、茨城県の史跡に指定されています。
大生古墳群は、大生神社を中心に西部に5基・東部に4基の前方後円墳が築造されています。この西部5号墳は西端に位置し、子子舞塚古墳(西部1号墳)(ランキング721位)・天神塚古墳(西部4号墳)(ランキング995位)に次ぐ規模の古墳です。西部の古墳は、東部と比べて整備されていますが、この西部5号墳は墳丘上に草木が茂り、墳形はややわかりづらいです。余談になりますが、訪問時、大生神社の周辺地域は古(いにしえ)を感じさせる雰囲気が漂っていました。ただ、最近のグーグルマップを見ると、この地域に太陽光パネルが広がりつつあり、おっさん的には残念な景観です。
後円部右側。左側。

前方部右側。左側。

前方部から後円部。南西から。
後円部墳頂。
以上2015年5月撮影。
追記
2019年4月24日のブログに再訪時の新しい絵を掲載しています。
大生古墳群は、大生神社を中心に西部に5基・東部に4基の前方後円墳が築造されています。この西部5号墳は西端に位置し、子子舞塚古墳(西部1号墳)(ランキング721位)・天神塚古墳(西部4号墳)(ランキング995位)に次ぐ規模の古墳です。西部の古墳は、東部と比べて整備されていますが、この西部5号墳は墳丘上に草木が茂り、墳形はややわかりづらいです。余談になりますが、訪問時、大生神社の周辺地域は古(いにしえ)を感じさせる雰囲気が漂っていました。ただ、最近のグーグルマップを見ると、この地域に太陽光パネルが広がりつつあり、おっさん的には残念な景観です。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。南西から。
後円部墳頂。
追記
2019年4月24日のブログに再訪時の新しい絵を掲載しています。
Posted by じこま at
09:09
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2019年02月11日
1153 成島1号墳 山形県米沢市 60(59)m
米沢市教育委員会の『遺跡詳細分布調査報告書 第16集 別冊 成島古墳群1号墳』によると、「成島古墳群1号墳は、平成元年に発見され、平成3年に測量調査が行われました。その結果、全長58.7mの前方後円墳であることが確認されました。 古墳からは、墓壙跡と副葬品として鹿角装鉄剣、鉄鏃、鉇、管玉等が出土しました。墓壙には、割竹形木棺を埋置したと推測され、粘土槨をもたない木棺直葬の形態と聞いております。年代は、県内でも古い4世紀後半~4世紀終末期に位置づけられます。」(序文) 「平成3年の測量調査で判明した成島1号墳について述べる。1号墳は山頂の南側を削平して古墳を構築したものである。古墳の南側から前方部の西側にかけて周溝上の落ち込みがみられる。(中略) 古墳の形状は左右対象(ママ 「称」の誤り)の前方後円墳であり、後円部径が32.5m、前方部長が26.2mの全長58.7mを有する。後円部は後世に掘られた穴が十箇所に亘って存在し、古墳の墳頂部が著しく変形している。従って墳麓線の有段の把握は困難であった。現状での観察では北側と南側に段が認められ、三段築成の可能性が高い。」(p.12)と述べられています。
古墳は、米沢盆地に面する山地東端の山頂付近に立地し、山裾を国道287号線が南北に通り、約400m北に、JR.米坂線「成島」駅があります。最初は、丘陵地の北部にある京塚古墳群に向かって、木製の鳥居のある場所から上っていきましたが、途中から薮漕ぎしても全く進めない状況で断念しました。このまま諦めるのも納得がいかなかったので、国道を南下して道路側から斜面をジグザグに上りながら、ようやく山頂にたどり着きました。しかし、ここも激しい薮で墳形は全くわからない絵しか撮れませんでした。ただ、木々の間から見る米沢盆地に少し癒されました。
後円部右側。左側。

前方部右側。左側。

前方部から後円部。
後円部墳頂。
後円部端全景。
遠景。東から。
前方後円墳を横からみたようだが、1号墳はこの絵の中にないかも。
後円部墳頂から米沢盆地方面を見る。
以上2017年5月撮影。
古墳は、米沢盆地に面する山地東端の山頂付近に立地し、山裾を国道287号線が南北に通り、約400m北に、JR.米坂線「成島」駅があります。最初は、丘陵地の北部にある京塚古墳群に向かって、木製の鳥居のある場所から上っていきましたが、途中から薮漕ぎしても全く進めない状況で断念しました。このまま諦めるのも納得がいかなかったので、国道を南下して道路側から斜面をジグザグに上りながら、ようやく山頂にたどり着きました。しかし、ここも激しい薮で墳形は全くわからない絵しか撮れませんでした。ただ、木々の間から見る米沢盆地に少し癒されました。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。
後円部墳頂。
後円部端全景。
遠景。東から。
後円部墳頂から米沢盆地方面を見る。
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08:08
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