2019年02月22日

1181 和志山古墳 愛知県岡崎市 60m

 宮内庁が景行天皇皇子の「五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこと)墓」と治定している古墳です。川崎みどりさんは、「全長60mの前方後円墳である。後円部の直径30m・高さ6m、前方部は幅26m・高さ3.4mで、西南西に向いている。後円部に対し前方部が低く狭い。かつては後円部に蓮華寺の建物があったと伝えられ、改変を受けたと思われる。」(「177 和志山古墳」、『愛知県史 資料編3 考古3 古墳』p.530)と述べています。 
 古墳は、名鉄名古屋本線「宇頭」駅の約400m南の台地縁辺に立地し、蓮華寺の境内に位置しています。宮内庁が管理しているので、墳丘には立ち入れません。ただ、柵から墳丘を見ることは可能でした。 
 約500m北に宇頭大塚古墳(ランキング816位)があります。       

 立札(制札)。


 前方部端近景。前方部端全景。西から。


 後円部(横からか)。


 前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。


 右手前が後円部、左奥が前方部。


 やや全景(横から)。右が後円部、左が前方部。南から。
            以上2013年12月撮影。


 石柱。


 やや全景(横から)。右が前方部、左が後円部。北から。
            以上2017年11月撮影。  


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2019年02月22日

1180 曽我山古墳 高知県宿毛市 60m

 「消滅古墳」です。現在は、コンクリート会社の敷地内となっており、早朝で関係者の方はおらず、近づくことは断念しました。古墳は、くろしお宿毛線の「平田」駅の約200m南、県道21号線の西側の丘陵地上にありました。高知県では、最大で唯一の前方後円墳の可能性が指摘されている古墳です。ウィキペディアの「平田曽我山古墳」の項目では、「宿毛市指定文化財 ・史跡 ・平田曾我山古墳ー1957年(昭和32年)7月27日指定」と記されていますが、宿毛市のHP.では確認できませんでした。消滅古墳が史跡指定されているならば、とても珍しいケースだと思います。 
 奈良女子大学の前方後円墳データベースの「曽我山古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60m 後円部:径30m 高3m 前方部:長30m 特記事項【周濠】なし。【その他】封土中から土師器の細片が多数出土。1948年破壊。」と記されています。

 
      追記(2020年5月3日)
 
 「宿毛市宿毛歴史館」の矢木さんより、「平田曽我山古墳」は「昭和32年に市指定され、現在も解除されておりません。」と御教示いただきました。感謝申し上げます。
 また、宿毛市のHP.の「宿毛市振興計画 -基本計画ー 平成28年」の「歴史・伝統の継承」(p.17)に示された「指定文化財」の表に、「市」「平田曽我山古墳」として掲載されていました。ここまで、チェックできていませんでした。関係者の皆さんにご迷惑をおかけしました。また、「曽我山古墳の出土品」も市の指定文化財となっています。


 跡地遠景。東南東から。


 跡地遠景。南東から。


 跡地付近。北東から。
            以上2017年5月撮影。  


Posted by じこま at 09:09Comments(0)

2019年02月22日

1179 御園古墳(願成寺山古墳) 兵庫県尼崎市 60m

 奈良女子大学の前方後円墳データベースの「御園古墳(願成寺山古墳・目鏡塚古墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60m 後円部:径30m 高3m 前方部:幅30m 長30m 高2.5m 特記事項【その他】現状は双円墳的形態で、原形を失っている。1933年墓地整理に伴い後円部乱掘、組合式箱式石棺出土。」と記されています。古墳の史跡指定はありませんが、出土した石棺は、考古資料として尼崎市の文化財に指定されています。
 「墓地古墳」です。なんと、墓地名も、「御園古墳墓地」らしいです。古墳は、北・東・西側が三菱電機伊丹製作所に囲まれ、南側には道路をはさんで阪急神戸線が通り、線路沿いの道路から細い道を北にむかうしか行き方がない、たどり着くのが容易でない古墳です。当初は、墓地にむかう細い道が曲がっている東側が後円部端と思い込んでいましたが、上記データベースには、前方部が東に図示してありました。そう考えると、石棺の設置場所が、「後円部ではなく前方部にある謎」が解けました。見た目で判断したことに反省して、「ではなく」という表現を用いました。石棺は、墓地上の施設内に設置されています。
 また、約200m東に、周囲をコンクリートで固められている家形石棺の蓋石があり、「岡院の石棺」と呼ばれています。文化財指定はなく、出土地は不明だそうですが、御園古墳の石棺は蓋石が残っているので直接的な関係性はなさそうです。ただ、岡院の石棺の立場に立てば、「ひっくり返されて身動きできないようにされ、かなわんな。」とぼやいているかもしれません。

 尼崎市教委の説明板。


 後円部跡ではなく前方部跡。


 前方部跡ではなく後円部跡から前方部跡。


 石棺。
            以上2014年1月撮影。


 後円部跡ではなく前方部跡。

 前方部跡ではなく後円部跡。


 前方部跡ではなく後円部跡から前方部。


 後円部端跡ではなく前方部端跡2つ。


 石棺の石柱。石棺。
              以上2012年5月撮影。


 おまけの「岡院の石棺」。尼崎市教委の説明板。石棺。
            以上2014年1月撮影。  


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