2019年03月22日
[1227-3] 向日北山古墳 京都府向日市 60m
消滅古墳です。現在は府営団地になっています。奈良女子大学の前方後円墳データベースの「北山古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60m未満程度か」と記されています。
約100m南に元稲荷古墳(ランキング362位)、約400m北に五塚原古墳(ランキング285位)があります。この地域は、古墳時代前期の大型古墳が多く築造されています。余談ですが、元稲荷古墳は兵庫県神戸市の西求女塚古墳(ランキング211位)と「同形墳」(おっさん註 墳丘の規模や墳形がほぼ一致する古墳)であり、箸墓古墳(ランキング位)を「モデルプラン」としてその3分の1の規模で設計された可能性が想定される(「元稲荷古墳第10次調査 現地説明会資料 2013(平成25)3月3日(日)」)と指摘されています。
跡地付近。東から。
府営向日台団地10棟。
跡地付近。東北東から。
跡地付近。北東から。
左が府営向日台団地10棟。 以上2016年5月撮影。
約100m南に元稲荷古墳(ランキング362位)、約400m北に五塚原古墳(ランキング285位)があります。この地域は、古墳時代前期の大型古墳が多く築造されています。余談ですが、元稲荷古墳は兵庫県神戸市の西求女塚古墳(ランキング211位)と「同形墳」(おっさん註 墳丘の規模や墳形がほぼ一致する古墳)であり、箸墓古墳(ランキング位)を「モデルプラン」としてその3分の1の規模で設計された可能性が想定される(「元稲荷古墳第10次調査 現地説明会資料 2013(平成25)3月3日(日)」)と指摘されています。
跡地付近。東から。
跡地付近。東北東から。
跡地付近。北東から。
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2019年03月22日
[1227-2] 公卿塚(くげづか)古墳 埼玉県本庄市 円墳 径50→(65)m
消滅古墳です。現在、跡地は住宅地になっています。本庄市のHP.の「本庄市の古墳」の「金鑽神社古墳(かなさなじんじゃこふん)『5世紀前半』」の項目で、「この円筒埴輪の表面には、朝鮮半島の土器製作技法に起源する『格子タタキ技法』が用いられていることから、金鑽神社古墳の埴輪の製作に、朝鮮半島出身の土器製作技術者が参加していたことが考えられています。『格子タタキ技法』を用いて製作された埴輪は、このほかにも、かつて北堀にあった公卿塚古墳(直径65メートル)や生野山丘陵上に所在する生野山将軍塚古墳(直径60メートル)からも出土しています。」と記されています。
埼玉県北部の本庄市は、県内でも比較的大型円墳が多く築造されている地域です。この公卿塚古墳の他に、三杢山古墳(ランキング826位)・金鑚神社古墳(ランキング861位)・生野山将軍塚古墳(ランキング1093位)があります。
跡地付近。南東から。→削除しました。 北堀1714-4付近。
跡地付近。南から。→削除しました。 以上2016年11月撮影。
追記(2022年10月24日)
本庄市教育委員会が1991年に発行した『本庄遺跡群発掘調査報告書 Ⅴ』(奈良文化財研究所の「全国遺跡報告総覧」所収)の「所収遺跡」の項目で、「遺跡名 公卿塚古墳 (略) 遺跡所在地 埼玉県本庄市大字北堀久下塚1689-1」と記されています。そのため、上掲の絵「北堀1714-4付近」から約100m北西の場所が古墳跡地でした。混乱を避けるために、上掲の絵は削除しました。
いつか再訪して、正確な場所の絵を掲載したいと思います。
追記の追記
2023年2月13日のブログに、正確な場所の絵を掲載しています。
埼玉県北部の本庄市は、県内でも比較的大型円墳が多く築造されている地域です。この公卿塚古墳の他に、三杢山古墳(ランキング826位)・金鑚神社古墳(ランキング861位)・生野山将軍塚古墳(ランキング1093位)があります。
跡地付近。南東から。→削除しました。 北堀1714-4付近。
跡地付近。南から。→削除しました。 以上2016年11月撮影。
追記(2022年10月24日)
本庄市教育委員会が1991年に発行した『本庄遺跡群発掘調査報告書 Ⅴ』(奈良文化財研究所の「全国遺跡報告総覧」所収)の「所収遺跡」の項目で、「遺跡名 公卿塚古墳 (略) 遺跡所在地 埼玉県本庄市大字北堀久下塚1689-1」と記されています。そのため、上掲の絵「北堀1714-4付近」から約100m北西の場所が古墳跡地でした。混乱を避けるために、上掲の絵は削除しました。
いつか再訪して、正確な場所の絵を掲載したいと思います。
追記の追記
2023年2月13日のブログに、正確な場所の絵を掲載しています。
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2019年03月21日
[1227-1] 垣籠(かいごめ)古墳 滋賀県長浜市 55→(60・70)m
奈良女子大学の前方後円墳データベースの「垣籠古墳(王塚古墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 築成:前方部:2段、後円部:不明 墳長:55? 後円部:径27? 高3.5? 前方部:幅28m 長29m 高5m 特記事項【その他】後円部の大半は削平されている。削平されている部分は前方部とされていたが、近年の測量調査によって後円部と判断された。1882年に一部開墾、1902年にも開墾。」と記されています。また、滋賀県教育委員会事務局文化財保護課の学習シート「№041 垣籠古墳」の中で、「垣籠古墳は、横山丘陵の西の平野に立地し、古墳時代前期以降、中期を中心とし、一部後期まで続く長浜古墳群の一部を構成しています。(中略)墳丘形については、前方部を南に向ける全長50m程度の前方後円墳とされてきましたが、近年の測量調査や周辺の確認調査の結果から、前方部を北に向けた全長が60m程度、周濠を含めると80mを超える前方後円墳であることがわかってきました。」と述べられています。さらに、細川修平さんは、70mとする見解を示しています。(「近畿北部」 広瀬和夫・和田晴吾編『講座 日本の考古学 7 古墳時代上』 p.259)古墳は、滋賀県の史跡に指定されています。
上記のように、後円部は一部を除いて削平され、前方部も社殿が建立され変形しています。それでも、前方部は高さのある墳丘が残されています。
約400m北に長浜茶臼山古墳(ランキング353位)、山を挟んで約600m東に村居田古墳(ランキング1203位)があります。
滋賀県教委の説明板。
後円部残存部右側。左側。

前方部右側。左側。

前方部から後円部。
後円部端全景。
全景(横から)。右が前方部、左が後円部跡。東から。
遠景。中央の林が前方部、その左側が後円部跡。東の天神岩から見る。
以上2016年3月撮影。
上記のように、後円部は一部を除いて削平され、前方部も社殿が建立され変形しています。それでも、前方部は高さのある墳丘が残されています。
約400m北に長浜茶臼山古墳(ランキング353位)、山を挟んで約600m東に村居田古墳(ランキング1203位)があります。
滋賀県教委の説明板。
後円部残存部右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。
後円部端全景。
全景(横から)。右が前方部、左が後円部跡。東から。
遠景。中央の林が前方部、その左側が後円部跡。東の天神岩から見る。
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2019年03月21日
1227 塩田王子塚古墳 長野県上田市 60m
HP.「上田市文化財マップ」の「王子塚古墳(塩田新町)」の項目で、「この古墳は上からみた平面の形が帆立貝〔ほたてがい〕に似ているため『帆立貝式古墳』と呼ばれています。東信地方ではただ一つの帆立貝式古墳であり、大変重要な古墳です。 古墳は塩田地区の南西部の新町にあり、氷上王子神社の境内に位置しています。この古墳の北側は一面に水田地帯が広がっています。 古墳の大きさは、全長が50.8m、前方部の長さが約20m、後円部の直径が約39mあります。この大きさは全国各地の帆立貝式古墳の中では中規模〔ちゅうきぼ〕のものであり、この上田地方を治めた首長[しゅちょう]の墓と考えられます。 古墳の現在の様子は、墳丘[ふんきゅう](盛土をして築いた丘)が氷上王子神社の建物などにより削[けず]り取られ、形が大きく変化しています。しかし北側の後円部は、当時の形がよく残されています。この墳丘の大きさや形から5世紀中頃から6世紀前半にかけて築かれた古墳と推定されています。」と記されています。ただし、全長については20+39≠50.8なので、ここでは、上田市教育委員会の説明板にある「古墳の大きさは南北五十九.五メートル」を参考に59.5≒60と考えておきます。「王子塚古墳」という名称で、上田市の史跡に指定されています。
上記のように、後円部は水田の中に大きな墳丘が残されていますが、前方部は削平され神社の建物が建立されています。後円部墳頂には、4基の祠が祀られていました。余談ですが、約1km東に戦没画学生慰霊美術館の「無言館」があります。また、訪問時NHKの大河ドラマ『真田丸』が放映されており、道中真田幸村関連の幟があちこちに見られました。
上田市教委の説明板。
後円部右側。左側。

前方部右側。左側跡。

前方部右隅から後円部。
後円部墳頂。
後円部端全景。北から。
全景(横から)。右が前方部跡、左が後円部。西から。
以上2016年4月撮影。
上記のように、後円部は水田の中に大きな墳丘が残されていますが、前方部は削平され神社の建物が建立されています。後円部墳頂には、4基の祠が祀られていました。余談ですが、約1km東に戦没画学生慰霊美術館の「無言館」があります。また、訪問時NHKの大河ドラマ『真田丸』が放映されており、道中真田幸村関連の幟があちこちに見られました。
上田市教委の説明板。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側跡。
前方部右隅から後円部。
後円部墳頂。
後円部端全景。北から。
全景(横から)。右が前方部跡、左が後円部。西から。
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2019年03月20日
1226 忍勝寺山古墳 岐阜県垂井町 60m
奈良女子大学の前方後円墳データベースの「忍勝寺山古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:現存59.6m 後円部:径59.6×54.6m 高2.8m 特記事項【周濠】あり。【その他】前方部削平され、後円部墳頂部も整地される。大正年間に発掘されたと伝えられる。」と記されています。また、HP.「垂井町文化財アーカイブ」の「忍勝寺山古墳」の項目で、「詳細 直径60mの帆立貝式円墳(おっさん註 「帆立貝式円墳」という表現は初めて目にしました。直径60mの円墳状の帆立貝式古墳という意味でしょうか)です。5世紀後半に築造されたとおもわれます。鉄鏃や銅鏃、直刀、香炉状のものが出土したと伝えられています。」と記されています。垂井町の史跡に指定されています。
古墳は、小河川をはさんで忍勝寺の西側の平地に立地しています。約300m南東に美濃国府跡があり、この地が古墳時代においても政治の中枢部であった可能性も考えられます。上記のように、後円部の墳頂には広い平坦面があり、石塔や祠が祀られています。ただ、削平された前方部がどこにあるのかが明確な資料を見つけることができなかったので、「帆立貝形前方後円墳」としての絵はありません。
約1500m北東に親ヶ谷古墳(ランキング501位)があります。
垂井町教委の説明板。
後円部墳頂2つ。

後円部全景。南から。
後円部全景。西から。
以上2016年5月撮影。
後円部墳頂。
後円部全景。南から。
後円部全景。南西から。
以上2013年2月撮影。
古墳は、小河川をはさんで忍勝寺の西側の平地に立地しています。約300m南東に美濃国府跡があり、この地が古墳時代においても政治の中枢部であった可能性も考えられます。上記のように、後円部の墳頂には広い平坦面があり、石塔や祠が祀られています。ただ、削平された前方部がどこにあるのかが明確な資料を見つけることができなかったので、「帆立貝形前方後円墳」としての絵はありません。
約1500m北東に親ヶ谷古墳(ランキング501位)があります。
垂井町教委の説明板。
後円部墳頂2つ。
後円部全景。南から。
後円部全景。西から。
後円部墳頂。
後円部全景。南から。
後円部全景。南西から。
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2019年03月20日
1225 生坪塚山(なまつぼつかやま)古墳 熊本県合志市 60→(円墳 径30m)
合志市のHP.の「生坪塚山古墳(市指定文化財)」の項目で、「本市と菊池市泗水町の境の生坪区にある、古墳時代前期(5世紀頃)(おっさん註 5世紀は古墳時代前期??)の円墳です。 直径約30m、高さ約4mあり、墳丘のすそ部分が少し削られていますが、築造当時の原型をほぼ留めています。当時、一帯を治めていた豪族の墓だと考えられます。 発掘調査を行っていないため、詳しいことは不明ですが、古墳の頂上に立つ板石が棺のふたと伝えられていることから、古墳内部には箱式石棺(石の板を張り、直接死者の棺桶としたもの)か竪穴式石室(石を積み上げて造られたお墓のうち、出入り口を上部に設けたもの)のどちらかがあると考えられています。」と記されています。ランキングの参考にさせていただいている、HP.「古墳探訪」では、全長60mの前方後円墳と記されていますが、ここでは円墳として書いていきます。合志市の史跡に指定されています。
説明板の文字が風雨に耐え切れず消失し、ホワイトボード状態です。文字が残っていた頃の画像では、合併以前の西合志町教育委員会が設置したものでした。前方部が削平された前方後円墳と言われれば納得してしまいそうな雰囲気のある円墳です。墳頂には、石室の石材として用いられたと考えられている2基の立石があります。部分的に朱の跡が見られると言われていますが、訪問時は全く気がつきませんでした。「もっとしっかり見りん」。
西合志町教委の説明板。
墳頂の石材か2つ。

全景。西から。
全景。南東から。
以上2015年11月撮影。
説明板の文字が風雨に耐え切れず消失し、ホワイトボード状態です。文字が残っていた頃の画像では、合併以前の西合志町教育委員会が設置したものでした。前方部が削平された前方後円墳と言われれば納得してしまいそうな雰囲気のある円墳です。墳頂には、石室の石材として用いられたと考えられている2基の立石があります。部分的に朱の跡が見られると言われていますが、訪問時は全く気がつきませんでした。「もっとしっかり見りん」。
西合志町教委の説明板。
墳頂の石材か2つ。
全景。西から。
全景。南東から。
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2019年03月19日
1224 前隈山古墳(高城寺東南古墳) 佐賀県佐賀市 60m
奈良女子大学の前方後円墳データベースの「前隈山古墳(高城寺東南古墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60m 特記事項【その他】削平が著しく墳形など不明。」と記されています。
古墳は、長崎自動車道の「佐賀大和」IC.の約300m北東の丘陵上に立地しています。墳丘上は草木が生い茂り、何を撮っているか不明な絵しかありません。かろうじて、墳丘らしい高まりを確認することができました。「残念だらー」。
約3km西に船塚古墳(ランキング189位)、約2km南東に金立銚子塚古墳(ランキング325位)があります。それぞれ、佐賀県1位・2位の規模があります。全くの余談ですが、佐賀市の西隣の小城市は、おっさんの大学時代の同級生の出身地でした。元気かな?
後円部右側か。左側か。

前方部か。

全景か。
石室の石材か。
以上2013年10月撮影。
古墳は、長崎自動車道の「佐賀大和」IC.の約300m北東の丘陵上に立地しています。墳丘上は草木が生い茂り、何を撮っているか不明な絵しかありません。かろうじて、墳丘らしい高まりを確認することができました。「残念だらー」。
約3km西に船塚古墳(ランキング189位)、約2km南東に金立銚子塚古墳(ランキング325位)があります。それぞれ、佐賀県1位・2位の規模があります。全くの余談ですが、佐賀市の西隣の小城市は、おっさんの大学時代の同級生の出身地でした。元気かな?
後円部右側か。左側か。
前方部か。
全景か。
石室の石材か。
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2019年03月19日
1223 小山古墳 和歌山県和歌山市 60m
奈良女子大学の前方後円墳データベースの「小山古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60m 特記事項【その他】段々畑となり墳丘は著しく変形。」と記されています。
古墳は、紀ノ川の約2km南にある和歌山市東部の丘陵地北端付近に立地し、県道9号線の「小倉カントリー俱楽部」の看板のある交差点を南に進み、鉄塔が目印となります。
発見困難古墳です。最初の訪問時は、少し高まりのある部分の絵を撮りましたが、全く古墳らしさを感じない墳形で自信がありませんでした。和歌山市の岩橋千塚古墳群に属する天王塚古墳(ランキング469位)の石室公開日(「1番があれば2番がある 天王塚古墳の石室」 2018年3月6日のブログ参照)に再チャレンジし、最初の場所から約50m南の林の中に墳丘らしい高まりを見つけパチリ。ただし、おっさんの勝手な思い込みの可能性も否定できません。
後円部右側か。左側か。

前方部か。
前方部から後円部か。北から。
全景(横から)か。右が後円部か、左が前方部か。西から。
以上2018年3月撮影。
古墳は、紀ノ川の約2km南にある和歌山市東部の丘陵地北端付近に立地し、県道9号線の「小倉カントリー俱楽部」の看板のある交差点を南に進み、鉄塔が目印となります。
発見困難古墳です。最初の訪問時は、少し高まりのある部分の絵を撮りましたが、全く古墳らしさを感じない墳形で自信がありませんでした。和歌山市の岩橋千塚古墳群に属する天王塚古墳(ランキング469位)の石室公開日(「1番があれば2番がある 天王塚古墳の石室」 2018年3月6日のブログ参照)に再チャレンジし、最初の場所から約50m南の林の中に墳丘らしい高まりを見つけパチリ。ただし、おっさんの勝手な思い込みの可能性も否定できません。
後円部右側か。左側か。
前方部か。
前方部から後円部か。北から。
全景(横から)か。右が後円部か、左が前方部か。西から。
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2019年03月18日
1222-2 高井古墳のおまけの「三之谷壁画古墳・文堂古墳」 兵庫県香美町
HP.「香美町観光案内所」の「三之谷壁画古墳」の項目で、「現地入りまで ・冬は雪で、全く行けません。冬は未踏の地でして、秋なども熊が出て危ないため、ご遠慮ください。 ・夏から秋は、草が生い茂る場所です。現地も、未整備のままですから、ほとんど現地が確認できませんし、おすすめしません。 ・年間通して、唯一のおすすめできる季節は、春です。雪が融けて、草のない頃合いが良いです。 ・ラジオや熊鈴など、音が出るものを携帯されることもおすすめします。一人よりも、複数人でのご来訪をおすすめしております。」と記されています。この文言に魅かれて、高井古墳の訪問の際に寄り道することを決意しました。三之谷壁画古墳は兵庫県下で唯一の壁画(線刻)古墳、文堂古墳は県下有数の金銅装頭椎太刀などの副葬品の出土があるそうです。いずれも、兵庫県の史跡に指定されています。
全くの余談ですが、香美町の西隣に温泉町(現在は合併して新温泉町)があります。訪問時この町を通過した際、おっさんの大学時代の同級生がこの町の出身であることを思い出しました。元気かな?さらに、余談の余談ですが、旅の疲れを癒すために「リフレッシュパークゆむら」という日帰り温泉施設を利用させてもらいましたが、その住所は「新温泉町湯1371」でした。温泉+湯とは「どすごい地名だらー」。
① 三之谷1号墳(三之谷壁画古墳) 円墳 径12m
木柱。兵庫県教委の説明板。

全景。
石室入口。石室内部から。
以上2015年4月撮影。
② 文堂古墳 円墳か
兵庫県教委の説明板。
全景。
石室入口。石室内部から。
以上2015年4月撮影。
全くの余談ですが、香美町の西隣に温泉町(現在は合併して新温泉町)があります。訪問時この町を通過した際、おっさんの大学時代の同級生がこの町の出身であることを思い出しました。元気かな?さらに、余談の余談ですが、旅の疲れを癒すために「リフレッシュパークゆむら」という日帰り温泉施設を利用させてもらいましたが、その住所は「新温泉町湯1371」でした。温泉+湯とは「どすごい地名だらー」。
① 三之谷1号墳(三之谷壁画古墳) 円墳 径12m
木柱。兵庫県教委の説明板。
全景。
石室入口。石室内部から。
② 文堂古墳 円墳か
兵庫県教委の説明板。
全景。
石室入口。石室内部から。
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2019年03月18日
1222 高井古墳 兵庫県香美町 60m
奈良女子大学の前方後円墳データベースの「高井古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円? 墳長:60m 特記事項【その他】前方後円墳と伝承。旧状を大きく損なっているため、復元推定も基本的に無理が感じられる。」と記されています。
墳丘や墳裾の一部が住宅などで改変され、前方部端には墓石が立てられています。しかし、墳丘の高まりは残されており、おっさん的には前方後円墳と断定できる古墳です。しかも、約150m東には、旧山陰道である国道9号線が通っており立地条件としても申し分ありません。
約250m西に三之谷壁画古墳、約300m東に文堂古墳があります。また、約3km南に庵ノ谷2号墳(ランキング1081位)があります。
後円部右側。左側。

前方部右側。左側。

前方部から後円部。
前方部端全景。南から。
全景(横から)。右が前方部、左が後円部。西から。
以上2015年4月撮影。
墳丘や墳裾の一部が住宅などで改変され、前方部端には墓石が立てられています。しかし、墳丘の高まりは残されており、おっさん的には前方後円墳と断定できる古墳です。しかも、約150m東には、旧山陰道である国道9号線が通っており立地条件としても申し分ありません。
約250m西に三之谷壁画古墳、約300m東に文堂古墳があります。また、約3km南に庵ノ谷2号墳(ランキング1081位)があります。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。
前方部端全景。南から。
全景(横から)。右が前方部、左が後円部。西から。
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