2019年03月17日
1221 六反池古墳 大阪府富田林市 60m
奈良女子大学の前方後円墳データベースの「六反池古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60m」と記されています。
古墳は、近鉄長野線の「富田林」駅から約400m北東にある六反池の南側に位置し、丘陵斜面に立地しています。訪問時、「装備」(おっさん註 上着・帽子・軍手)を整えて墳丘のある丘陵斜面に入ろうとしましたが、畑地で耕作している人の不審者を見るような視線が気になって断念しました。「気が小さすぎるだらー」。したがって、墳丘上の絵はありません。
約1km北に真名井古墳(ランキング1125位)がありました。
後円部端全景。東から。
全景。右が後円部、奥が前方部。南から。
全景。手前が前方部、奥が後円部。西から。
以上2014年6月撮影。
古墳は、近鉄長野線の「富田林」駅から約400m北東にある六反池の南側に位置し、丘陵斜面に立地しています。訪問時、「装備」(おっさん註 上着・帽子・軍手)を整えて墳丘のある丘陵斜面に入ろうとしましたが、畑地で耕作している人の不審者を見るような視線が気になって断念しました。「気が小さすぎるだらー」。したがって、墳丘上の絵はありません。
約1km北に真名井古墳(ランキング1125位)がありました。
後円部端全景。東から。
全景。右が後円部、奥が前方部。南から。
全景。手前が前方部、奥が後円部。西から。
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2019年03月17日
1220 闘鶏山(つげやま)古墳 大阪府高槻市 60→(86)m
奈良女子大学の前方後円墳データベースの「闘鶏山古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60m」と記されています。一方、高槻市のHP.の「インターネット歴史館」の「史跡闘鶏山古墳」の項目では、「史跡闘鶏山古墳は、平野に突き出た丘陵先端部にある、全長86.4メートルの前方後円墳です。 平成14年の確認調査によって後円部から未盗掘の竪穴式石室2基が発見され、大きな話題になりました。石室内部のファイバースコープ調査では三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)や石製腕飾り、木棺の一部などが確認され、4世紀前半の三島の王墓と考えられています。」と記されています。2002年に国の史跡に指定されています。
古墳は、「闘鶏野神社」北側の裏山に位置しています。名神高速道路上に架かる陸橋が、神社の参道となっています。訪問時、古墳は発掘調査(中断?)中で黒色シートや土嚢が置かれていました。特に後円部墳頂付近は黒色の網で囲まれ、中には土嚢が積まれ監視カメラのようなものが設置されていました。まるで、手術室でオペを受けている患者のようでした。未盗掘古墳と話題になって15年以上経過していますが、石室内の発掘調査は実施されていないようです。発掘調査はある意味破壊行為でもあるので、安易な調査は慎まなければならないというのは理解できますが、墳丘を整備して一般公開するのも史跡として重要な役割だと思います。
約600m南東に今城塚古墳(ランキング45位)、約400m東に岡本山古墳(弁天山A1号墳)(ランキング153位)、約400m北東に弁天山古墳(弁天山B1号墳)(ランキング295位)があります。
高槻市教委による「闘鶏野神社」の説明板。
後円部右側。左側。

前方部右側。左側。

前方部から後円部。
後円部墳頂。
全景(横から)。右が後円部、左が前方部。東から。
以上2016年4月撮影。
古墳は、「闘鶏野神社」北側の裏山に位置しています。名神高速道路上に架かる陸橋が、神社の参道となっています。訪問時、古墳は発掘調査(中断?)中で黒色シートや土嚢が置かれていました。特に後円部墳頂付近は黒色の網で囲まれ、中には土嚢が積まれ監視カメラのようなものが設置されていました。まるで、手術室でオペを受けている患者のようでした。未盗掘古墳と話題になって15年以上経過していますが、石室内の発掘調査は実施されていないようです。発掘調査はある意味破壊行為でもあるので、安易な調査は慎まなければならないというのは理解できますが、墳丘を整備して一般公開するのも史跡として重要な役割だと思います。
約600m南東に今城塚古墳(ランキング45位)、約400m東に岡本山古墳(弁天山A1号墳)(ランキング153位)、約400m北東に弁天山古墳(弁天山B1号墳)(ランキング295位)があります。
高槻市教委による「闘鶏野神社」の説明板。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。
後円部墳頂。
全景(横から)。右が後円部、左が前方部。東から。
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2019年03月16日
1219 杉谷山7号墳 京都府京丹後市 60m
HP.「前方後円墳 Japanese ancient tombs」の「データベース」の「京都」にある「杉谷山7号墳」の項目で、「古墳形態:前方後円墳 墳丘長:60m(原形推定値不明) (おっさん註 以下「原形推定値不明」は省略) 前方部幅:20m 前方部高:4m 後円部径:46m 後円部高:5m 崩壊度:完存 立地:丘陵稜」と記されています。
古墳の位置情報を示した資料がなかなか見つからず、上記HP.の地図を頼りに訪問しました。古墳の近くに鉄塔があり、それを目印として周辺をウロウロしました。ただ、墳丘らしき高まりは見つけられず、結局鉄塔と遠景の絵を撮っただけでした。再チャレンジしても結果は同じでした。帰宅後冷静に地図をながめてみると、ナント古墳の目印とすべき鉄塔は1基北に設置されているものでした。われながら「どアホ」でした。反省の意を込めて、ダメダメな絵を掲載します。いつかリベンジしたいと思います。
約200m西に、西谷山1号墳(ランキング818位)があります。
鉄塔の脚部分。
遠景。南から。
以上2016年3月撮影。
追記
2019年8月3日のブログに、「追加1219 杉谷山7号墳」として、リベンジの絵を掲載しています。
古墳の位置情報を示した資料がなかなか見つからず、上記HP.の地図を頼りに訪問しました。古墳の近くに鉄塔があり、それを目印として周辺をウロウロしました。ただ、墳丘らしき高まりは見つけられず、結局鉄塔と遠景の絵を撮っただけでした。再チャレンジしても結果は同じでした。帰宅後冷静に地図をながめてみると、ナント古墳の目印とすべき鉄塔は1基北に設置されているものでした。われながら「どアホ」でした。反省の意を込めて、ダメダメな絵を掲載します。いつかリベンジしたいと思います。
約200m西に、西谷山1号墳(ランキング818位)があります。
鉄塔の脚部分。
遠景。南から。
追記
2019年8月3日のブログに、「追加1219 杉谷山7号墳」として、リベンジの絵を掲載しています。
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2019年03月16日
1218 ふくべ塚古墳(船津Ⅼ8号墳) 静岡県富士市 60(径30mの円墳?)m
中日本高速道路株式会社東京支社・財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所の『富士山・愛鷹山麓の古墳群 第二東名建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 富士市‐4』では、「船津古墳群は、愛鷹山麓の丘陵の緩斜面に位置し、春山川両岸の河岸段丘や尾根の緩斜面を中心に分布する。これまでの分布調査や発掘調査により、217基以上が存在したことが想定される。(中略) 古墳の存在は古くから周知されており、前方後円墳の可能性のある第8号墳(ふくべ塚古墳)で鏡・大刀などが、(中略)出土したと伝えられている。」(p.18)と述べられています。ただ、同書の「第7表 船津古墳群の主要古墳および調査された古墳一覧」では、「古墳名:8号墳 墳形:円墳? 規模:30? 埋葬施設:不明 副葬品:鏡・勾玉・刀身 文献:富士市教委1988 備考:ふくべ塚古墳 前方後円墳の可能性がある。」(p.18)と記されています。
古墳の墳丘上には茶畑が広がっています。横からは前方後円墳らしく見えますが、「前方部」からは「後円部」の高まりは感じられず、「くびれ部」もはっきりしていません。明確な根拠はありませんが、ここでは前方後円墳として書いていきます。
後円部右側。左側。

前方部右側。左側。

前方部から後円部。
後円部墳頂。
全景。右が前方部、左が後円部。東から。
以上2015年5月撮影。
古墳の墳丘上には茶畑が広がっています。横からは前方後円墳らしく見えますが、「前方部」からは「後円部」の高まりは感じられず、「くびれ部」もはっきりしていません。明確な根拠はありませんが、ここでは前方後円墳として書いていきます。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。
後円部墳頂。
全景。右が前方部、左が後円部。東から。
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2019年03月15日
1217 天神台古墳 千葉県香取市 60m
奈良女子大学の前方後円墳データベースの「天神台古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60m」と記されています。
古墳は台地上に立地しており、近隣の大型古墳が低地に築造されている点と異なっています。また、墳丘全体が残されていることも特徴的です。後円部墳頂には3基の小さな祠が祀られており、前方部の端にも大きな祠と鳥居が建立されています。
約400m北西に禅昌寺山古墳があります。香取市のHP.の「アーカイブ香取遺産」の「Vol‐044 禅昌寺山古墳 大須賀川流域を支配した 首長の墳墓」の項目で、「また、近隣の森戸地区から谷中地区にかけて、大戸天神台古墳、権現前古墳、大法寺古墳、塚越古墳など、禅昌寺山古墳と同じぐらいの規模と推測される古墳がいくつか確認されています。最近の研究では、大戸天神台古墳(4世紀)→権現前古墳(5世紀後半)→大法寺古墳(6世紀前半)→禅昌寺山古墳(6世紀中ごろ)の順で継続的に築造されたことが分かってきました。この地域を支配した歴代の首長墓と言えるでしょう。」と記されています。
後円部右側。左側。


前方部右側。左側。

前方部から後円部。前方部端から後円部。

後円部墳頂。
遠景。南西から。右手前が後円部、中央奥が前方部。
以上2015年6月撮影。
古墳は台地上に立地しており、近隣の大型古墳が低地に築造されている点と異なっています。また、墳丘全体が残されていることも特徴的です。後円部墳頂には3基の小さな祠が祀られており、前方部の端にも大きな祠と鳥居が建立されています。
約400m北西に禅昌寺山古墳があります。香取市のHP.の「アーカイブ香取遺産」の「Vol‐044 禅昌寺山古墳 大須賀川流域を支配した 首長の墳墓」の項目で、「また、近隣の森戸地区から谷中地区にかけて、大戸天神台古墳、権現前古墳、大法寺古墳、塚越古墳など、禅昌寺山古墳と同じぐらいの規模と推測される古墳がいくつか確認されています。最近の研究では、大戸天神台古墳(4世紀)→権現前古墳(5世紀後半)→大法寺古墳(6世紀前半)→禅昌寺山古墳(6世紀中ごろ)の順で継続的に築造されたことが分かってきました。この地域を支配した歴代の首長墓と言えるでしょう。」と記されています。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。前方部端から後円部。
後円部墳頂。
遠景。南西から。右手前が後円部、中央奥が前方部。
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2019年03月15日
1216 森戸大法寺古墳 千葉県香取市 60m
香取市のHP.の「アーカイブ香取遺産」の「Vol‐045 大法寺古墳・権現前古墳 大須賀川流域の歴代首長墳墓」の項目で、「大法寺古墳は、大法寺の境内にあります。その頂には御堂が建立され、かなり高さのある円墳のようにみえますが、周辺の地形などの観察から、全長約60mの前方後円墳と考えられています。西側が前方部、東側が後円部で、主軸方向はほぼ東西です。 現在残っているのは後円部で、大きさは直径32.5m、高さ6.5mです。前方部は、宅地開発などで失われてしまいましたが、後円部は御堂があるため削られることなく残ったのでしょう。」と記されています。
上記のように、大法寺の境内に円墳状の大きな墳丘が残されており、墳丘上には御堂が建立されています。
約500m東に、権現前古墳(ランキング1214位)がありました。
後円部墳頂。
後円部端全景。東から。
後円部全景。北から。
以上2015年6月撮影。
上記のように、大法寺の境内に円墳状の大きな墳丘が残されており、墳丘上には御堂が建立されています。
約500m東に、権現前古墳(ランキング1214位)がありました。
後円部墳頂。
後円部端全景。東から。
後円部全景。北から。
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2019年03月14日
1215 禅昌寺山古墳 千葉県香取市 60(60~70)m
古墳は一部残存していますが、墳形を確認することはできません。残存部の墳頂に鳥居と祠が祀られています。
香取市のHP.の「アーカイブ香取遺産」の「Vol‐044 大須賀川流域を支配した 首長の墳墓」の項目で、「禅昌寺山古墳は、大須賀川下流の沖積平野、大戸川字中宿にある禅昌寺山の南側隣接地にあります。現在は古墳の大半が削平されて径10m程の塚状となっていますが、全長60~70mの前方後円墳であったと推測されています。」と記されています。また、奈良女子大学の前方後円墳データベースの「禅昌寺山古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:推定60m 特記事項【その他】前方部は古くに削平、部分遺存していた後円部は1970年に家屋増築のため削平。その時、遺物出土。」と記されています。
約1km北東に権現前古墳(ランキング1214位)がありました。また、約400m南東に後述する天神台古墳があります。
墳丘残存部。北から。
墳丘残存部。南東から。
墳丘残存部墳頂。
右が墳丘残存部、左が後円部跡。北西から。
以上2015年6月撮影。
香取市のHP.の「アーカイブ香取遺産」の「Vol‐044 大須賀川流域を支配した 首長の墳墓」の項目で、「禅昌寺山古墳は、大須賀川下流の沖積平野、大戸川字中宿にある禅昌寺山の南側隣接地にあります。現在は古墳の大半が削平されて径10m程の塚状となっていますが、全長60~70mの前方後円墳であったと推測されています。」と記されています。また、奈良女子大学の前方後円墳データベースの「禅昌寺山古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:推定60m 特記事項【その他】前方部は古くに削平、部分遺存していた後円部は1970年に家屋増築のため削平。その時、遺物出土。」と記されています。
約1km北東に権現前古墳(ランキング1214位)がありました。また、約400m南東に後述する天神台古墳があります。
墳丘残存部。北から。
墳丘残存部。南東から。
墳丘残存部墳頂。
右が墳丘残存部、左が後円部跡。北西から。
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2019年03月14日
1214 権現前古墳 千葉県香取市 60m
消滅古墳です。跡地は、住宅地や畑地になっています。香取市のHP.の「アーカイブ香取遺産」の「Vol‐045 大法寺古墳・権現前古墳 大須賀川流域の歴代首長墳墓」の項目で、「大法寺古墳と権現前古墳がある森戸地区は、台地の裾部にあたる標高3mの微高地で、大須賀川下流に広がる低地に面しています。」と記されています。大須賀川は、約2km北方に流れている利根川の支流の一つです。
奈良女子大学の前方後円墳データベースの「権現前古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60m 特記事項【周濠】あり。」と記されています。
約500m西に大法寺古墳、また約1km南西に禅昌寺山古墳があります。
跡地付近。南から。
香取市森戸253付近。
跡地付近。南西から。
香取市森戸229付近。 以上2015年6月撮影。
奈良女子大学の前方後円墳データベースの「権現前古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60m 特記事項【周濠】あり。」と記されています。
約500m西に大法寺古墳、また約1km南西に禅昌寺山古墳があります。
跡地付近。南から。
跡地付近。南西から。
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2019年03月13日
1213-2 鶴窪古墳のおまけの「六孫王原古墳」 千葉県市原市 前方後方墳 46m
「姉崎古墳群」の中では、あまり例のない前方後方墳という墳形の六孫王原古墳を紹介します。一般的に、「前方後方墳」は古墳時代前期に築造されその後見られなくなる墳形です。しかしこの古墳は、前方後円墳の築造が終わる時期以降(終末期)に造られたと考えられている全国的にも珍しい古墳です。
市原市埋蔵文化財調査センターのHP.の「遺跡フャイル」の「六孫王原古墳 ろくそんのうばら」の項目で、「六孫王原古墳は、姉崎古墳群の中では最も新しい一群で、墳丘全長45.6mの前方後方墳です。後方部の裾に凝灰質砂岩による横穴式石室が構築されていますが、後世の盗掘により大きく破壊されています。副葬品には、毛彫り文様を持つ金銅製馬具の破片、直刀片・鉄鏃・刀子が断片的に遺されています。(中略)これらの遺物の形からすると、古墳は7世紀後半に築かれたと推定できます。」と記されています。
市原市教委の説明板。
後方部中央・右側。左側。


前方部右側。左側。

前方部から後方部。前方部左隅から後方部。
ほぼ全景(横から)。右が前方部、左が後方部。西から。
以上2015年11月撮影。
市原市埋蔵文化財調査センターのHP.の「遺跡フャイル」の「六孫王原古墳 ろくそんのうばら」の項目で、「六孫王原古墳は、姉崎古墳群の中では最も新しい一群で、墳丘全長45.6mの前方後方墳です。後方部の裾に凝灰質砂岩による横穴式石室が構築されていますが、後世の盗掘により大きく破壊されています。副葬品には、毛彫り文様を持つ金銅製馬具の破片、直刀片・鉄鏃・刀子が断片的に遺されています。(中略)これらの遺物の形からすると、古墳は7世紀後半に築かれたと推定できます。」と記されています。
市原市教委の説明板。
後方部中央・右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後方部。前方部左隅から後方部。
ほぼ全景(横から)。右が前方部、左が後方部。西から。
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2019年03月13日
1213 鶴窪古墳 千葉県市原市 60m
市原市埋蔵文化財調査センターの「遺跡フャイル」の「鶴窪古墳 つるくぼ」の項目で、「鶴窪古墳は、西方向台地崖側に後円部を向ける、全長約60mの前方後円墳です。前方後円墳といっても、鶴窪古墳の墳形はやや特異であり、上下2段の墳丘のうち、下段は後円部と前方部の境がない盾形であったことがわかっています。また、現状では、後円部に対して前方部の幅、高さとも極端に大きく見えます。」と記されています。市原市の史跡に指定されています。
訪問時は、説明板もよく読まずに絵を撮っていたので、従来の感覚で前方部と後円部を判断していました。一般的に前期の前方後円墳の前方部の高さと幅は小さく、後期になると前方部の幅と高さは大きくなり、後円部より大きくなるケースもあります。その点をうっかりして、前方部と後円部を勘違いしていました。そのため、「前方部から後円部」を撮ったつもりが、実際は「後円部から前方部」の絵でした。「しっかりしりん」。
鶴窪古墳は「姉崎古墳群」に属し、「内裏塚古墳群」とともに千葉県屈指の大古墳群です。すでに何度か触れていますが、姉崎天神山古墳(ランキング122位)や姉崎二子塚古墳(ランキング284位)が群中では代表的な古墳です。
市原市教委の説明板。
後円部右側。左側。

前方部右側。左側。

後円部から前方部。
全景。右が前方部、左が後円部。南東から。
以上2015年11月撮影。
後円部右側。左側。

前方部右側。左側。

2つで全景。先が後円部、後が前方部。

全景。右が後円部、左が前方部。
以上2012年11月撮影。
訪問時は、説明板もよく読まずに絵を撮っていたので、従来の感覚で前方部と後円部を判断していました。一般的に前期の前方後円墳の前方部の高さと幅は小さく、後期になると前方部の幅と高さは大きくなり、後円部より大きくなるケースもあります。その点をうっかりして、前方部と後円部を勘違いしていました。そのため、「前方部から後円部」を撮ったつもりが、実際は「後円部から前方部」の絵でした。「しっかりしりん」。
鶴窪古墳は「姉崎古墳群」に属し、「内裏塚古墳群」とともに千葉県屈指の大古墳群です。すでに何度か触れていますが、姉崎天神山古墳(ランキング122位)や姉崎二子塚古墳(ランキング284位)が群中では代表的な古墳です。
市原市教委の説明板。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。
後円部から前方部。
全景。右が前方部、左が後円部。南東から。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。
2つで全景。先が後円部、後が前方部。
全景。右が後円部、左が前方部。
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