2019年06月07日
1296-1-6 西都原206号墳(鬼の窟古墳) 宮崎県西都市 円墳 径36m
東憲章さんは、「西都原における最後の首長墓は、第一ーB支群の北寄り、西都原台地のほぼ中央に位置する二〇六号墳(鬼の窟古墳)である(略)。 六世紀末ごろに築造された墳丘は、もはや前方後円墳ではなく円墳である。葺石をもたない二段築成の墳丘内には、巨石を用いた畿内型の横穴式石室がある。 一九九二年、宮崎大学教育学部が墳丘測量と石室実測をし、墳丘東西直径三六.四メートル、南北直径三三.六メートル、高さ七.三メートルであることがわかった。墳丘の周囲には、幅九.九~一一メートルの周堀(内濠)と、幅一〇~一一メートル、高さ五.二メートルの外堤、さらにその外側に幅約五メートルの周堀(外濠)がある。」「石室は早くから開口しており、遺物の残存状況は悪いものの、一九九五年から宮崎県教育委員会が発掘調査し、玄室や羨道部から耳環、玉類、鉄釘、鉄鏃、金銅馬具片、須恵器、土師器などが出土した。その出土状況から、六世紀末~七世紀前半までのあいだに、組合せ式木棺を用いた埋葬が少なくとも三回おこなわれたと推定される。」(『古墳時代の南九州の雄 西都原古墳群』 pp.61~62)と述べています。「西都原古墳群」を構成する古墳のひとつとして、国の特別史跡に指定されています。
古墳の墳丘そのものは直径が40mに満たない円墳ですが、周囲に大きな周堤がめぐり、まるで「空飛ぶ円盤」か「メキシカンハット」のようです。西都原古墳群を代表する古墳のひとつとなっています。
説明板。
墳丘やや全景。
石室入口。石室内部(玄室)。

外堤全景と墳丘。南東から。
以上2015年11月撮影。
墳丘やや全景。
石室入口。石室内部(玄室)。

外堤の一部と墳丘。
以上2012年2月撮影。
墳丘やや全景。
石室内部(羨道と奥が玄室)。
外堤の一部と墳丘。
以上2009年7月撮影。
古墳の墳丘そのものは直径が40mに満たない円墳ですが、周囲に大きな周堤がめぐり、まるで「空飛ぶ円盤」か「メキシカンハット」のようです。西都原古墳群を代表する古墳のひとつとなっています。
説明板。
墳丘やや全景。
石室入口。石室内部(玄室)。
外堤全景と墳丘。南東から。
墳丘やや全景。
石室入口。石室内部(玄室)。
外堤の一部と墳丘。
墳丘やや全景。
石室内部(羨道と奥が玄室)。
外堤の一部と墳丘。
Posted by じこま at
09:09
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2019年06月07日
1296-1-5 西都原169号墳・170号墳・171号墳 宮崎県西都市
東憲章さんは、「男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳とともに丸山支群を構成するのが二基の円墳(一六九号墳、一七〇号墳)と一基の方墳(一七一号墳)である(略)。この三基の古墳は、男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳の陪塚と目される。(中略) 前期以来、西都原に存在した複数系列の首長墓群を束ねるように出現した男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳は、築造の時期もほぼ同時期とみられるが、一六九号・一七〇号・一七一号の三基の古墳も、築造時期や埴輪の特徴において主たる二大古墳と切り離して考えることはできない。」(『古墳時代の南九州の雄 西都原古墳群』 p.49)と述べています。
余談ですが、西都原古墳群出土として有名な、重要文化財にも指定されている船形埴輪と子持家形埴輪は、当初169号墳の出土と考えられていたそうですが、発掘調査の結果170号墳の出土であることが確定したそうです。
① 169号墳 円墳 径48(49)m
標石。
全景。西から。
以上2015年11月撮影。
② 170号墳 円墳 径45(47)m
説明板。
全景。西から。
全景。南西から。
以上2015年11月撮影。
③ 171号墳 方墳 辺36(21)m
説明板2つ。後者は宮崎県教委。

全景。南西から。
以上2015年11月撮影。
墳頂。復元埴輪が見える。
全景。
以上2009年7月撮影。
余談ですが、西都原古墳群出土として有名な、重要文化財にも指定されている船形埴輪と子持家形埴輪は、当初169号墳の出土と考えられていたそうですが、発掘調査の結果170号墳の出土であることが確定したそうです。
① 169号墳 円墳 径48(49)m
標石。
全景。西から。
② 170号墳 円墳 径45(47)m
説明板。
全景。西から。
全景。南西から。
③ 171号墳 方墳 辺36(21)m
説明板2つ。後者は宮崎県教委。
全景。南西から。
墳頂。復元埴輪が見える。
全景。
Posted by じこま at
08:08
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