2019年06月14日
1303-5 小羽山30号墓 福井県福井市 四隅突出型墳丘墓 辺26×22m
福井市のHP.の「清水地域の文化財 小羽山30号墓」の項目で、「30号墓は長方形で26×22メートル、高さが2.7メートルあります。長方形の四隅には亀の足のような短い突出があり、これを加えるとその規模は33×28メートルにもなります。この四隅に突出のあるお墓のことを四隅突出型墳丘墓と呼びます。 四隅突出型墳丘墓は山陰地方から北陸地方にかけて分布していて、現在その数は50ほどが知られています(中略)。 30号墓の内部には5×3メートルの穴が掘られ、その中に3.5メートルの箱型の木棺が安置されていました。棺の中にはガラスの勾玉と管球(ママ 「管玉」の誤り)、碧玉とよばれる緑色の石で造られた管球(ママ)と朱が振りまかれ、西枕に安置されたと思われる遺体の胸の上には鉄の短剣が一振り置かれていました。(中略)また、30号墓からは70個にも達する土器が埋葬の儀式に使われていて、北陸でこれ程の数の土器が墓から発見された例は他にはありません。 ところで、30号墓の造られた年代は、埋葬の儀式に用いられた土器の形などから弥生時代後期の終り頃、2世紀の前半頃と考えています。」と記されています。ただ、同じ項目で、「造営時期は出土した土器から弥生時代後期中頃の2世紀初頭と考えられ、北陸地方で最も古い四隅突出型墳丘墓です。」とも記され、「どっちやねん」と言いたくなります。
四隅突出型墳丘墓は、島根県・鳥取県を中心に山陰地方にに多く見られますが、北陸の福井県・石川県・富山県でも発見されています。ただし、なぜかその中間地域の京都府や兵庫県の日本海側では発見例がありません。余談ですが、『出雲国風土記』の「国引き神話」に、「高志の都都の三埼(能登半島の珠洲岬か)」が国の余りとして登場しており、出雲地域と北陸地域の関係性に妄想が働いてしまいます。
標柱。清水町教委の説明板。

北東突出部から墳丘。
北西突出部から墳丘。
ほぼ全景。南から。
ほぼ全景。北から。
2014年5月撮影。
四隅突出型墳丘墓は、島根県・鳥取県を中心に山陰地方にに多く見られますが、北陸の福井県・石川県・富山県でも発見されています。ただし、なぜかその中間地域の京都府や兵庫県の日本海側では発見例がありません。余談ですが、『出雲国風土記』の「国引き神話」に、「高志の都都の三埼(能登半島の珠洲岬か)」が国の余りとして登場しており、出雲地域と北陸地域の関係性に妄想が働いてしまいます。
標柱。清水町教委の説明板。
北東突出部から墳丘。
北西突出部から墳丘。
ほぼ全景。南から。
ほぼ全景。北から。
Posted by じこま at
09:09
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2019年06月14日
1303-4 矢谷(やだに)1号墓 広島県三次市 四隅突出型墳丘墓 辺19×13m
古墳から四隅突出型墳丘墓に逆走していますが、脱線ついでに他地域の四隅突出型墳丘墓についても若干取り上げていきたいと思います。
渡辺貞幸さんは、「四隅突出型墳丘墓は、弥生時代の中期後葉に広島県北部の山間地で出現したと考えられている。初期ののものは低い長方形のマウンドの斜面に石を貼り、四方の稜線に横位に置いた石を直線的に並べるのが特徴だ。」と述べ、広島県三次市の殿山38号墓を「最古級の四隅突出型墳丘墓の一つ」として例示しています。(『出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群』(p.51)。
この矢谷1号墓は、上記のような出現期ではなく、弥生時代後期後半の築造と考えられています。ただ、四隅突出型墳丘墓の発祥の地?の墳丘墓で、吉備の特殊器台や特殊壺が出土している意義は大きいのではないかと思います。また墳形も、二つの四隅突出型墳丘墓をつなげたような特徴的な形をしています。この1号墓は、周囲の2基の方形周溝墓や須恵器窯跡とともに「矢谷古墳」という名称で国の史跡に指定されています。三次市教育委員会の説明板も、「史跡 矢谷古墳(矢谷弥生墳丘墓)」と表示され、担当者の苦慮の跡がうかがえます。「弥生時代の古墳というのは変だらー」。
石柱。三次市教委の説明板。

南西突出部。南東突出部。

墳頂の墓壙。
全景。西から。
以上2017年5月撮影。
渡辺貞幸さんは、「四隅突出型墳丘墓は、弥生時代の中期後葉に広島県北部の山間地で出現したと考えられている。初期ののものは低い長方形のマウンドの斜面に石を貼り、四方の稜線に横位に置いた石を直線的に並べるのが特徴だ。」と述べ、広島県三次市の殿山38号墓を「最古級の四隅突出型墳丘墓の一つ」として例示しています。(『出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群』(p.51)。
この矢谷1号墓は、上記のような出現期ではなく、弥生時代後期後半の築造と考えられています。ただ、四隅突出型墳丘墓の発祥の地?の墳丘墓で、吉備の特殊器台や特殊壺が出土している意義は大きいのではないかと思います。また墳形も、二つの四隅突出型墳丘墓をつなげたような特徴的な形をしています。この1号墓は、周囲の2基の方形周溝墓や須恵器窯跡とともに「矢谷古墳」という名称で国の史跡に指定されています。三次市教育委員会の説明板も、「史跡 矢谷古墳(矢谷弥生墳丘墓)」と表示され、担当者の苦慮の跡がうかがえます。「弥生時代の古墳というのは変だらー」。
石柱。三次市教委の説明板。
南西突出部。南東突出部。
墳頂の墓壙。
全景。西から。
Posted by じこま at
08:08
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