2019年06月25日
[979-2-1] 不動塚古墳(野2号墳)のおまけの「モタレ古墳(野1号墳)」 岐阜県大野町 54m
大野町のHP.の「史跡野古墳群」の項目で、「モタレ古墳(野1号墳) 帆立貝形前方後円墳/主軸全長約54m、直径約36m、高さ約6m。 周濠から円筒埴輪や朝顔型埴輪の破片、須恵器が出土しています。」と記されています。
前方部が削平され、現状では円墳に見えます。
石柱。説明板と木柱。大野町教委の説明板。


後円部右側。左側。

後円部墳頂。
前方部跡から後円部。南東から。
全景(横から)。右が後円部、左が前方部跡。東から。
以上2016年5月撮影。
前方部が削平され、現状では円墳に見えます。
石柱。説明板と木柱。大野町教委の説明板。
後円部右側。左側。
後円部墳頂。
前方部跡から後円部。南東から。
全景(横から)。右が後円部、左が前方部跡。東から。
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2019年06月25日
1312→[979-2」 不動塚古墳(野2号墳) 岐阜県大野町 57(58・64)m
この古墳は、ランキングの参考にさせていただいている『古墳探訪』では「全長56.6m」と示されています。しかし、大野町のHP.では「主軸全長約64m」と記されていたので、全長64mの古墳という認識で、ランキング[979-2]として、すでに紹介していました。
この不動塚古墳は、国指定史跡「野古墳群」に属しています。今まで、群中では登越古墳(野4号墳)(ランキング523位)・南出口古墳(野5号墳)(ランキング540位)・乾屋敷(野6号墳)(ランキング612位)・南屋敷西古墳(野3号墳)(ランキング626位)を紹介してきました。
次の項目で、おまけとしてモタレ古墳(野1号墳)などを紹介するつもりです。
この不動塚古墳は、国指定史跡「野古墳群」に属しています。今まで、群中では登越古墳(野4号墳)(ランキング523位)・南出口古墳(野5号墳)(ランキング540位)・乾屋敷(野6号墳)(ランキング612位)・南屋敷西古墳(野3号墳)(ランキング626位)を紹介してきました。
次の項目で、おまけとしてモタレ古墳(野1号墳)などを紹介するつもりです。
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2019年06月24日
1311 雀宮牛塚古墳 栃木県宇都宮市 57m
消滅古墳です。古墳は、東北本線「雀宮」駅の約600m南にある新富児童公園の東にありました。現在は墓地となっています。墓地内で墓石が不自然に丸くなっているところがあり、そこが後円部跡と想定できます。
HP.「観光Fan」の「雀宮牛塚古墳(スズメノミヤウシヅカコフン)」の項目で、「宇都宮市新富町。田川の右岸段丘上にあった帆立貝式前方後円墳。全長約57m。 1824(文政7)年・1877(明治10)年・1969(昭和44)年の3度にわたる調査で湮滅。内部主体は粘土槨と思われる。副葬品として鏡・馬具・短甲・鉄鏃・直刀・耳飾り・鈴釧・環鈴・玉類・円筒埴輪・須恵器などがある。中でも画文帯神獣鏡は、銘文のある鉄剣を出土した埼玉県稲荷山古墳の鏡と同笵である。馬具は五鈴剣菱形杏葉とf字形鏡板付轡である。6世紀初頭の古墳。」と記されています。
門田康洋さんのブログ『趣味悠遊・古代を訪ねて』の「宇都宮市:学術的に価値の高い雀宮牛塚古墳、惜しいことに消滅」(2010‐10‐14)の項目で、「この写真はJR雀宮駅近くのなんの変哲もない墓地である。大人(うしと呼ぶ)塚古墳と読める祠がある。 これが学術的に有名な雀宮牛塚古墳の跡地である。大人(うし)とは集団を治めた首長・領主・貴人をさし、ヌシの意味で、ウシと転じ、牛塚と呼ばれるようになった。」と記されています。下の絵は、その祠と思われるものを撮ったものです。ただし、どこに「大人塚古墳」とあるか不明でした。「もっとよく見りん」。
「大人(うし)塚古墳」と読めるらしい祠。
後円部跡付近か。2つ。

前方部跡付近か。
以上2019年3月撮影。
HP.「観光Fan」の「雀宮牛塚古墳(スズメノミヤウシヅカコフン)」の項目で、「宇都宮市新富町。田川の右岸段丘上にあった帆立貝式前方後円墳。全長約57m。 1824(文政7)年・1877(明治10)年・1969(昭和44)年の3度にわたる調査で湮滅。内部主体は粘土槨と思われる。副葬品として鏡・馬具・短甲・鉄鏃・直刀・耳飾り・鈴釧・環鈴・玉類・円筒埴輪・須恵器などがある。中でも画文帯神獣鏡は、銘文のある鉄剣を出土した埼玉県稲荷山古墳の鏡と同笵である。馬具は五鈴剣菱形杏葉とf字形鏡板付轡である。6世紀初頭の古墳。」と記されています。
門田康洋さんのブログ『趣味悠遊・古代を訪ねて』の「宇都宮市:学術的に価値の高い雀宮牛塚古墳、惜しいことに消滅」(2010‐10‐14)の項目で、「この写真はJR雀宮駅近くのなんの変哲もない墓地である。大人(うしと呼ぶ)塚古墳と読める祠がある。 これが学術的に有名な雀宮牛塚古墳の跡地である。大人(うし)とは集団を治めた首長・領主・貴人をさし、ヌシの意味で、ウシと転じ、牛塚と呼ばれるようになった。」と記されています。下の絵は、その祠と思われるものを撮ったものです。ただし、どこに「大人塚古墳」とあるか不明でした。「もっとよく見りん」。
「大人(うし)塚古墳」と読めるらしい祠。
後円部跡付近か。2つ。
前方部跡付近か。
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2019年06月24日
1310 日上天王山古墳 岡山県津山市 57m
津山市のHP.の「津山市内の県指定文化財3」の中にある「日上天王山古墳・日上畝山古墳群」の項目で、「吉井川と加茂川の合流地点東側には、比高20mほどの扁平な丘陵が続いている。この日上畝山丘陵南東端頂部に、前方後円墳日上天王山古墳が前方部を北に向け存在する。平成6年3月から5月にかけ、後円部頂と東側墳端部の調査が行われた。調査結果に基づく古墳規模は、墳長56.9m、後円部径32.4m、前方部長25.6m、後円部高6.35m、前方部高3mである。前方部は、低くバチ形に開き、古式前方後円墳の様相を呈する。墳斜面に葺石が葺かれ、後円部は3段、前方部は2段に段をつけ築成されているが埴輪は用いられていない。日上畝山古墳群は、直径10m前後の円墳・方墳56基が現存し、竪穴式石槨や粘土槨が確認されており、いずれも横穴式石室導入以前の古墳で、大半が5世紀後半から6世紀前半に集中して築造された、県内でも希少な古式群集墳である。」と記されています。「日上天王山古墳・日上畝山古墳群」という名称で、岡山県の史跡に指定されています。
古墳は、吉井川と加茂川の合流地点から約600m南東にある独立丘陵上に立地しています。丘陵南端付近を通る県道350号線の頂部に「日上天王山古墳・日上畝山古墳群」という古びた案内板があり、それを目印にして北部に向かう細道に入っていきます。山道をしばらく進むと、大きな墳丘が見えてきます。群中では最大の規模があり、墳丘は著しい改変もなくよく残されています。
約3km北西の県立津山高校の敷地内に、十六夜山古墳(ランキング1120位)があります。
標識。津山市教委の説明板。

後円部右側。左側。

前方部右側。左側。

前方部から後円部。前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。


後円部墳頂。
全景(横から)。右が後円部、左が前方部。西から。
以上2014年3月撮影。
古墳は、吉井川と加茂川の合流地点から約600m南東にある独立丘陵上に立地しています。丘陵南端付近を通る県道350号線の頂部に「日上天王山古墳・日上畝山古墳群」という古びた案内板があり、それを目印にして北部に向かう細道に入っていきます。山道をしばらく進むと、大きな墳丘が見えてきます。群中では最大の規模があり、墳丘は著しい改変もなくよく残されています。
約3km北西の県立津山高校の敷地内に、十六夜山古墳(ランキング1120位)があります。
標識。津山市教委の説明板。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。
後円部墳頂。
全景(横から)。右が後円部、左が前方部。西から。
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2019年06月23日
1309 天神山古墳(柏崎10号墳) 埼玉県東松山市 前方後方墳 57m
奈良女子大学の前方後円墳データベースの「天神山古墳(柏崎10号墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円? 墳長:57m 後円部:高2.4m 前方部:高1.4m 特記事項【周濠】あり(幅7.0m)。【その他】トレンチから五領式期の破片出土。前方後方墳の可能性あり。墳丘の東半分が耕作などで削平。」と記されています。ただし、青木弘さんは、「研究報告1 古墳」(『見えてきた‼ 古墳時代の幕開け -東松山市反町遺跡を中心にー』所収 p.22)の中の「表1 埼玉の前期古墳」で、「柏崎天神山古墳 柏崎古墳群 東松山市小原 市野川右岸 台地縁辺 前方後方墳 57 「石室状の遺構」 銅釧(伝)、内行花文鏡(伝)、土師器」とまとめています。また、「全長62.5mの前方後方墳」とする見解も見られますが、ここでは全長57mの前方後方墳として書いていきます。
古墳は、国道407号線と254号線が交わる三差路の「柏崎」交差点を北西にむかい、「おくま山古墳→」の標識を過ぎ次の信号から約200m北東にあります。ただし、直接行く道がないので回り道をすることになり、「大倉工業」の大きな工場の北側に位置しています。古墳は、ほとんど墳丘らしきものは残っておらず、わずかに住宅地の間の畑地に丘状の高まりが見られるだけです。当初、東西に軸を持つ前方後円墳として絵を撮っていましたが、上記データベースでは南北に図示してあり、前方部がどこにあるか混乱してしまいました。
約300m南に、おくま山古墳(柏崎1号墳)(ランキング1033位)があります。
2つで後方部残存部。西から。

後方部跡。北東から。
後方部端残存部。北から。
後方部端全景。北から。
以上2019年3月撮影。
古墳は、国道407号線と254号線が交わる三差路の「柏崎」交差点を北西にむかい、「おくま山古墳→」の標識を過ぎ次の信号から約200m北東にあります。ただし、直接行く道がないので回り道をすることになり、「大倉工業」の大きな工場の北側に位置しています。古墳は、ほとんど墳丘らしきものは残っておらず、わずかに住宅地の間の畑地に丘状の高まりが見られるだけです。当初、東西に軸を持つ前方後円墳として絵を撮っていましたが、上記データベースでは南北に図示してあり、前方部がどこにあるか混乱してしまいました。
約300m南に、おくま山古墳(柏崎1号墳)(ランキング1033位)があります。
2つで後方部残存部。西から。
後方部跡。北東から。
後方部端残存部。北から。
後方部端全景。北から。
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2019年06月23日
1308 桂萱大塚古墳(片貝神社古墳) 群馬県前橋市 57m
奈良女子大学の前方後円墳データベースの「桂萱大塚古墳(片貝神社古墳・桂萱村9号墳〈綜覧〉)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:57m 後円部:高7m 前方部:高2.5m 特記事項【周濠】楯形。【その他】墳丘一部現存。」と記されています。
古墳は平地に立地し、上記データベースによると旧利根川の中洲に位置しているそうです。「前橋生鮮食料品総合卸売市場」の南にある道路を西に向かい、「運輸支局入口」交差点を南に行くとすぐに神社のある高まりが見え、そこが古墳になります。ただし、前方部は神社の社殿で完全に削平され、後円部も前方部側に社殿があり一部墳丘が削られ石垣で法面が覆われています。それでも後円部残存部は高さのある墳丘を残しており、墳頂部には石碑が数基建立されています。
余談ですが、交差点から西方を見るとわずかに富士山が頭を出していました。前にも書きましたが、関東甲駿(信越は?)地方では、古墳築造の立地条件のひとつに、「富士山が見えること」があげられると思っています。太宰治も、「富士には古墳がよく似合う」と言っていませんが・・・。
神社の石柱。
後円部右側。左側跡。

後円部墳頂。後円部残存部。後円部端全景、北から。


前方部跡から後円部。南から。
全景(横から)。右が前方部跡、左が後円部。西から。
以上2019年3月撮影。
古墳は平地に立地し、上記データベースによると旧利根川の中洲に位置しているそうです。「前橋生鮮食料品総合卸売市場」の南にある道路を西に向かい、「運輸支局入口」交差点を南に行くとすぐに神社のある高まりが見え、そこが古墳になります。ただし、前方部は神社の社殿で完全に削平され、後円部も前方部側に社殿があり一部墳丘が削られ石垣で法面が覆われています。それでも後円部残存部は高さのある墳丘を残しており、墳頂部には石碑が数基建立されています。
余談ですが、交差点から西方を見るとわずかに富士山が頭を出していました。前にも書きましたが、関東甲駿(信越は?)地方では、古墳築造の立地条件のひとつに、「富士山が見えること」があげられると思っています。太宰治も、「富士には古墳がよく似合う」と言っていませんが・・・。
神社の石柱。
後円部右側。左側跡。
後円部墳頂。後円部残存部。後円部端全景、北から。
前方部跡から後円部。南から。
全景(横から)。右が前方部跡、左が後円部。西から。
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2019年06月22日
1307-1 役所塚古墳(唐仁100号墳)のおまけの「薬師堂塚古墳(唐仁16号墳)」 鹿児島県東串良町 45m
奈良女子大学の前方後円墳データベースの「唐仁16号墳(薬師堂塚古墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 築成:前方部1段、後円部:1段 墳長:45m 後円部:径31m 高3.9m 前方部:幅22m 長22m 高3m」と記されています。「唐仁古墳群」を構成する古墳のひとつとして、国の史跡に指定されています。
円墳が多数を占める唐仁古墳群の中にあって、数少ない前方後円墳です。唐仁大塚古墳(唐仁1号墳)(ランキング98位)・役所塚古墳(唐仁100号墳)(ランキング1307位)に次ぐ規模があります。
石柱。説明板。

後円部右側。左側。

前方部右側。左側。

2つで全景。前者が後円部、後者が前方部。

ほぼ全景。右奥が前方部、左手前が後円部。
以上2012年2月撮影。
円墳が多数を占める唐仁古墳群の中にあって、数少ない前方後円墳です。唐仁大塚古墳(唐仁1号墳)(ランキング98位)・役所塚古墳(唐仁100号墳)(ランキング1307位)に次ぐ規模があります。
石柱。説明板。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。
2つで全景。前者が後円部、後者が前方部。
ほぼ全景。右奥が前方部、左手前が後円部。
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2019年06月22日
1307 役所塚古墳(唐仁100号墳) 鹿児島県東串良町 57m
奈良女子大学の前方後円墳データベースの「唐仁100号墳(役所塚古墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 築成:前方部:1段、後円部:1段 墳長:57m 後円部:径27m 高:3.3m 前方部:幅25m 長35m 高2.7m 特記事項【造出】なし。【周濠】なし。【周堤】なし。【その他】前方部先端の一部削除。」と記されています。「唐仁古墳群」を構成する古墳のひとつとして、国の史跡に指定されています。
唐仁古墳群の中では、鹿児島県最大の唐仁大塚古墳(唐仁1号墳)(ランキング98位)に次ぐ規模で、約300m南に大塚古墳があります。古墳は、畑地の中で大きな改変もなく残されています。前方部端が道路に掛かっていますが、その分道路が狭くなっています。
余談ですが、最初の訪問時、高速道路上限1000円という特例がありサイフ的には助かりましたが、体力的には限界でヘロヘロになって帰宅した記憶があります。
唐仁古墳群の碑。古墳群の説明板。

石柱。役所塚の説明板。

後円部。前方部。

前方部左隅から後円部。
全景(横から)。右が後円部、左が前方部。
以上2012年2月撮影。
ほぼ全景(横から)。右が後円部、左が前方部。
ほぼ全景(横から)。右が前方部、左が後円部。
以上2009年7月撮影。
唐仁古墳群の中では、鹿児島県最大の唐仁大塚古墳(唐仁1号墳)(ランキング98位)に次ぐ規模で、約300m南に大塚古墳があります。古墳は、畑地の中で大きな改変もなく残されています。前方部端が道路に掛かっていますが、その分道路が狭くなっています。
余談ですが、最初の訪問時、高速道路上限1000円という特例がありサイフ的には助かりましたが、体力的には限界でヘロヘロになって帰宅した記憶があります。
唐仁古墳群の碑。古墳群の説明板。
石柱。役所塚の説明板。
後円部。前方部。
前方部左隅から後円部。
全景(横から)。右が後円部、左が前方部。
ほぼ全景(横から)。右が後円部、左が前方部。
ほぼ全景(横から)。右が前方部、左が後円部。
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2019年06月21日
1306-3-1 分校(ぶんぎょう)カン山(マエ山)1号墳 石川県加賀市 37m
寺沢薫さんが、「纏向型前方後円墳」と定義する古墳のひとつです。(おっさん註 『王権誕生(文庫版)』の図「【纏向型前方後円墳】」(p.261)では、「分校マエ山」と記載されています。) 高橋浩二さんも、「前方後円墳の出現は、1期の分校カン山1号墳(約三七)にさかのぼる。これは北陸最古の、いわゆる纏向型とされるもので、方格規矩四神鏡一・鉄槍一・玉類等と土師器(漆町七群並行期)が出土している。」(「七 北陸」(p.364) 広瀬和雄・和田晴吾編『講座 日本の考古学7 古墳時代上』所収)と述べています。
説明板では、「第1号 前方後円墳(跡)」と表示されており、後円部の大部分が崖で崩れ、前方部が現存しています。少し離れた場所から見ると崖の上に墳丘らしきものが見えます。周囲には、前方後円墳や方墳があり、「分校古墳群前山支群」として、加賀市の史跡に指定されています。
説明板。
墳丘の一部が4つ。



後円部の一部。
前方部から後円部。
遠景。遠景の一部。
以上2010年5月撮影。
説明板では、「第1号 前方後円墳(跡)」と表示されており、後円部の大部分が崖で崩れ、前方部が現存しています。少し離れた場所から見ると崖の上に墳丘らしきものが見えます。周囲には、前方後円墳や方墳があり、「分校古墳群前山支群」として、加賀市の史跡に指定されています。
説明板。
墳丘の一部が4つ。
後円部の一部。
前方部から後円部。
遠景。遠景の一部。
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2019年06月21日
1306-3 石船塚古墳のおまけの「鶴尾神社4号墳」 香川県高松市 40m
高松市公式ホームページの「もっと高松」の「国指定史跡 石清尾山古墳群」の中の「鶴尾神社4号墳」の項目で、「説明 【外形】前方後円墳。積石塚。全長は約40メートルです。後円部は4段に築かれています。 【内部】後円部に竪穴式石室1基があります。」と記されています。「石清尾山古墳群」を構成する積石塚古墳のひとつとして、国の史跡に指定されています。
古墳は鶴尾八幡宮の裏山にある崖の上に位置しています。後円部の端の一部は崖が崩れて存在していません。最も危険な古墳のひとつだと思われます。最初の訪問時、「立入禁止」の表示板とロープが張ってあったので、墳丘上には入りませんでした。ただ、再訪時は表示板とロープがなかったので、墳丘上に上がって絵を撮りました。「良い子は真似をしたらダメだらー」。確か、同じような状況が石川県加賀市の分校カン山1号墳に見られました。
鶴尾八幡宮の扁額。
遠景。崖の頂部に古墳。
高松市教委の「立入禁止」の表示板。
前方部から後円部。
全景。
以上2009年8月撮影。
後円部右側。左側。

前方部。
前方部から後円部。
後円部墳頂。
遠景。
以上2013年4月撮影。
古墳は鶴尾八幡宮の裏山にある崖の上に位置しています。後円部の端の一部は崖が崩れて存在していません。最も危険な古墳のひとつだと思われます。最初の訪問時、「立入禁止」の表示板とロープが張ってあったので、墳丘上には入りませんでした。ただ、再訪時は表示板とロープがなかったので、墳丘上に上がって絵を撮りました。「良い子は真似をしたらダメだらー」。確か、同じような状況が石川県加賀市の分校カン山1号墳に見られました。
鶴尾八幡宮の扁額。
遠景。崖の頂部に古墳。
高松市教委の「立入禁止」の表示板。
前方部から後円部。
全景。
後円部右側。左側。
前方部。
前方部から後円部。
後円部墳頂。
遠景。
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09:09
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